伊達政宗 戦国の終わりを生きた、奥羽の「独眼竜」

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伊達政宗は戦国時代の末期に登場した武将で、奥羽(東北地方)を席巻し、伊達氏の最大勢力を築きました。

しかし政宗が活躍し始めた頃には、すでに豊臣秀吉という日本全国に影響を及ぼせる大勢力が登場しており、彼の野心はそういった天蓋からの制限を受けることになってしまいます。

この文章では「最後の戦国大名」とも呼べる伊達政宗について書いてみます。

伊達政宗

【伊達政宗の肖像画】

伊達氏は古くから陸奥を支配する大名だった

伊達氏の歴史は古く、遠く鎌倉時代から出羽や陸奥の国(山形・秋田県のあたり)で勢力を誇っていた名族です。

戦国時代は「下克上」の言葉で知られる通り、古くから続く家柄の大名は時代の変化についていけず、そのほとんどが没落していました。

しかし東北地方では伊達氏を始め、最上氏や南部氏などのいくつかの古い家柄がその勢力を保っています。

それだけ土地柄が保守的だったのだとも言えるでしょう。

また、それぞれの豪族同士が婚姻関係を結んでいることが多く、争いが発生しても親戚同士の小競り合いに終始するのがせいぜいででした。

そのように、相手を滅亡させるまでには徹底的に戦わなかったことも、古い家柄が温存された原因となっているようです。

政宗はその伊達氏の16代当主、輝宗の長男として1567年に生まれました。

この年には織田信長が美濃(岐阜県)の攻略に成功しており、大きな飛躍をとげる時期に入っています。

病により片目を失う

政宗は幼名を梵天丸といい、その名で呼ばれていた時代に天然痘にかかり、右目を失います。

このため隻眼となり、後世から「独眼竜」と呼ばれる風貌を持つことになります。

「独眼竜」はもともとは中国の武将につけられていたあだ名で、江戸時代に頼山陽という文人が作った詩によって、この名が政宗にもあてられるようになりました。

政宗自身は自分が隻眼となったことを嫌っていたようで、自分の肖像を作る際には隻眼で描かないように周囲に伝えていました。

家督相続

父の輝宗は早くから梵天丸を後継者にすることに決めており、10才の時に元服させ、「政宗」という名前を与えます。

この「政宗」は伊達家中興の祖と言われる9代当主にあやかって付けられた名前で、この名を与えることで、梵天丸が自分の後継者になることを内外に示しました。

伊達氏の内部には政宗の弟、小次郎を当主に擁立しようと目論む勢力があり、この動きを抑える目的もありました。

そして1584年、政宗が17才の時にはやくも輝宗は隠居し、家督を譲ります。

政宗はまだ若いことを理由に辞退しようとしますが、家臣たちの勧めを受け入れる形で、伊達氏の17代当主になりました。

そしてその翌年には、早くも軍事行動を起こしています。

大内定綱との戦いで、過酷な措置を取る

この年に、会津(福島県)小浜城主の大内定綱が、畠山義継という武将と手を組んで、田村氏の支配下からの脱却を試みました。

この田村氏は政宗の妻の実家であり、伊達氏の協力者ですので、政宗はこの行動を阻止するべく軍を発します。

政宗は大内定綱の支配する小手森城を包囲して攻め落とし、見せしめのために城中の人間を皆殺しにするという過酷な措置を取りました。

よく言えば穏健に、悪く言えばなあなあですまされることの多かった当時の東北の事情からは、考えられないような激しい措置でした。

政宗が、これまでの常識とは異なる行動を取ることを決意していた様がうかがい知れます。

これを見て、大内定綱と手を組んでいた畠山義継は政宗を恐れ、その父・輝宗にとりなしを依頼します。

その結果、領地をわずか五ヶ村に削られることを条件に、政宗に降伏すると約束します。

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