真田幸村(信繁) はどのような人物だったのか?

スポンサーリンク

真田幸村は大坂の陣で活躍し、「日本一の兵(つわもの)」とまで称された武将です。

戦国時代の最後の戦いを飾った武将として半ば伝説化したため、美化して語られることが多い人物でもあります。

この文章では、そんな幸村がどのような生涯を送った人物だったのか、について書いてみます。

Sanada_Yukimura
【真田幸村の肖像画】

実名は信繁

「幸村」というのは後世の軍記物などに記された名前であり、「信繁」というのが歴史上では正しい名前です。

この文章では、よく知られた幸村の名で呼んでいきたいと思います。

さて、信繁は父の真田昌幸によって付けられた名前ですが、これにはどのような意味が込められているでしょう。

信繁というと、同名で著名な人物に武田信繁がいます。

武田信繁は武田信玄の弟で、人望が厚く、兄をよく補佐し、その代理として戦場で大将を務めることがあるほどに信任されていました。

上杉謙信と信玄が争った「川中島の合戦」で戦死しており、これが信玄にとっては大きな痛手となりました。

彼が存命であれば武田氏の衰退はなかっただろう、とまで言われており、多くの武田氏の家臣たちからその死を惜しまれています。

昌幸はもともとは武田氏の家臣でしたので、この武田信繁のことをよく知っていたでしょう。

真田信繁もまた次男でしたから、兄を補佐するよき武将になってほしいという願いが、その名前には込められていたのかもしれません。

しかし実際には、真田信繁こと幸村は、そのような生涯を送ることはできませんでした。

どちらかと言うと、兄には負担をかけてしまった生涯となりました。

真田家の立場の変転

幸村の父・真田昌幸は先に述べたとおり、もともとは武田氏の家臣であり、武田信玄とその子の勝頼に仕えています。

1582年に勝頼は織田信長に敗れ、武田氏は滅亡します。

その時に上野国(群馬県)岩櫃城の守備を務めていた昌幸は織田氏に降伏し、その所領を安堵されます。

そして織田軍団の関東地方の司令官であった滝川一益の与力となり、指揮を受ける立場となります。

しかし、その直後に「本能寺の変」が起きて織田信長が殺害され、情勢が大きく変わります。

滝川一益は後ろ盾を失い、進出してきた北条氏の軍勢と戦って敗れ、所領の伊勢に撤退しました。

なんともめまぐるしい情勢の変化でしたが、織田軍が撤退したことにより、信濃や上野は徳川・北条・上杉の三大勢力の争奪戦が行われる地域となります。

ここで昌幸はこの三勢力の間を巧みに立ちまわり、真田氏の勢力を維持することに努めます。

徳川・北条・上杉の勢力はそれぞれ数万の大軍を動員できるほどの力を持っており、3千人を動員できる規模の真田氏のみで、長期間戦い続けるのは困難です。

そのため真田氏は上杉氏に従属し、その保護を得ることにします。

【次のページに続く▼】