織田信長を本能寺で殺害し、織田氏の覇権を打ち砕いたのは明智光秀ですが、その後さらに織田氏の力をそいでいったのが羽柴秀吉でした。
明智光秀と羽柴秀吉、このふたりには意外と多くの共通点があるようです。
この文章ではそのあたりに触れ、どうして信長によってその身分を大きく引き上げられたこの2人が、織田氏を衰退させるふるまいに出たのか、そのあたりを考えてみたいと思います。
明智光秀と羽柴秀吉、それぞれの不鮮明な出発点
明智光秀は美濃の豪族・明智氏の出身で、もともとは城持ちの家に生まれたと言われています。
明智氏は美濃を200年に渡って支配した名門、土岐氏の一族であったとされ、事実だとするとなかなかの家柄だと言えます。
しかし土岐氏の支族は美濃に数十家もあり、土岐氏の一族だったとしても必ずしも身分が高かったとは言えないようで、むしろ低い身分の出身だったという説もあります。
伝聞調で続けて書いていますが、実は明智光秀は青年期にどのような身分にあり、活動をしていたのかがはっきりしておらず、いくつかの説が立てられているのです。
このあたりは羽柴秀吉も似通っていて、尾張の農家に生まれたらしい、という以外には、信長に仕えるまでの正確な活動の記録はほとんど残っていません。
それぞれ後に数万の大軍を預かるほどの身分にまで登り、秀吉に至っては天下人にまでなるのに、出身の身分や若いころの活動・事績がよくわからない、というのも不思議な話です。
今よりも400年以上も昔の人物なので記録が散逸している可能性もあるでしょうが、どちらにしてもその出自や経歴には怪しげなところがあったのは間違いないでしょう。
人に誇って語れるような経歴であれば、自ら語るなり書き残すなりしていたでしょうから。
こういった人物たちが歴史の表舞台に堂々と登場することになったのは、出身の身分・経歴を問わず能力さえあれば引き上げていく、という信長の方針によるところが大きいです。
信長の軍団長たち
信長配下で方面司令官を任されるほどその能力を認められていたのは、以下の五人です。
明智光秀(1568年ごろに仕官。初めは足利義昭と信長に両属)
羽柴秀吉(1554年に仕官。武士としてではなく、雑用係の小者として)
柴田勝家(信長の父・信秀の代から仕えている。1540年ごろからか)
滝川一益(1555年ごろに仕官したと言われる。彼も出身が不明)
丹羽長秀(1550年から仕官。丹羽氏は先代までは尾張守護の斯波氏の家臣だった)
このうちの3人、明智光秀と羽柴秀吉、滝川一益の3人は当人の代から織田家に仕え、ともに出生がはっきりしていません。
信長の織田氏は父の信秀の代から栄えていたため、譜代の家臣も数多くいたはずですが、信長はそのうちの柴田勝家や佐久間信盛(彼も軍団長だったが、解任され追放されている)などを重用したのみで、あとは新参者に大きな権限を与えていたことになります。
柴田勝家にしても、もともとは信長の弟・信行の家老となっていて、一時は信長を排斥して信行を織田家の当主にしようと画策したことがあります。
信長にとっては危険人物だったはずですが、しばらくの冷却期間を置いてから用い始め、最終的には北陸を攻めるための方面司令官に任命しています。
丹羽長秀は出身がはっきりしていて、かつ信長に逆らったことのない人物でしたが、5人の中では権限が最も小さく、信長が本能寺で横死する1582年になってはじめて、四国征伐という大きな仕事を任されています。
その頃には他の4人は、何年も前から日本各地で大きな戦功をあげていました。
なのでこの中では信長からの評価は最も低かったようです。
信長は1567年に美濃を占領してから「天下布武」という言葉を用い、武力で天下を制圧することを宣言します。
それを実現するためには出身の身分も過去も問わず、有能な人間を用いて大きな権限を与えて働かせていくしかない、と決意したのでしょう。
織田氏に長く仕えている、安全な人間ばかり用いていては天下布武の達成は不可能であろう、と考えたのだと思われます。
そして結果としてこのうちの上位の2人、明智光秀と羽柴秀吉の活躍もあって織田氏は急速に成長するものの、後に大きく衰退することになりました。
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