馬超は後漢末期から蜀漢の建国にかけての時代に、活躍した武将です。
涼州の諸将を束ね、十万という大軍を組織し、曹操と戦いました。
しかし賈詡の離間の策によって敗れ、以後は敗退を重ね、没落していきます。
やがて益州の制圧をめざす劉備に仕えて厚遇を受け、蜀漢の臣下として高い地位を得ました。
自身の反乱によって一族を滅ぼされましたが、いとこの馬岱を劉備に託すことで、家系の祭祀をつないでいます。
この文章では、そんな馬超の生涯を書いてみます。
【馬超の肖像画】
馬騰の子として生まれる
馬超は字を猛起といい、扶風郡茂陵県の出身です。
176年に誕生しました。
父は馬騰といい、征西将軍の地位を持ち、涼州に勢力を築いた武人でした。
また、その先祖は後漢の建国に貢献した馬援という武将で、長く続いた武門の家柄だったのだと言えます。
羌族の血を引く
しかし、馬騰の父の代になると、馬家は没落し、官職を失い、貧しい生活を強いられました。
このため、馬騰の父は異民族である羌族に交じって暮らし、そこの娘と結婚します。
このため、馬騰や馬超は羌族の血を引くことになり、異民族とのつながりが強くなりました。
このことが、馬超の生涯を特徴づけることになります。
馬騰が立身する
こういった経緯があったため、馬騰は当初、木こりをして自活していました。
やがて異民族が涼州に攻めこんでくると、馬騰は討伐軍に志願して戦功を立て、武官の地位を得ます。
馬騰は信義に厚く、賢明だったために、人々に引き立てられるようになりました。
そしてついには征西将軍にまで登りつめ、多くの軍勢を率いるようになります。
血筋がよかったとは言え、元は木こりだったことを思うと、異例の出世だったと言えるでしょう。
韓遂に襲撃されて負傷する
やがて董卓が台頭し、後漢の統治が乱れると、馬騰は都となった長安に攻めこむなど、独自の動きを取り始めます。
しかし、同じく涼州で勢力を得ていた韓遂と仲違いをし、やがて激しく争うようになりました。
この際に馬騰の家族が、韓遂の部下に襲撃を受け、何人かが殺害されてしまいます。
そして長男の馬超も首に傷を負い、危ういところを切り抜けています。
鍾繇に従って戦功を立てる
董卓が滅び、曹操が朝廷を支配するようになると、司隷校尉(都の周辺地域の長官)の鍾繇が、西方の抑えとして赴任します。
鍾繇は馬騰と韓遂に手紙を送り、服従した場合と反抗した場合の利害を説きました。
すると馬騰は鍾繇に従う道を選択し、一万の兵とともに、馬超を彼の元に送ります。
こうして馬超は、歴史の表舞台に登場することになったのでした。
戦功を立てる
馬超は鍾繇に従い、平陽県で反抗を続ける郭援らの討伐に参加します。
この時に馬超は、流れ矢に当たって負傷しますが、袋で足を包んで戦い続けます。
そして郭援を打ち破り、部下の龐徳がその首を取りました。
こうして馬超はその勇猛さを世に示します。
すると、その評判を聞いた曹操は、馬超を都に召還しようとしましたが、馬超はこれに従いませんでした。
すでにこの頃から、曹操に対して対抗意識を持っていたようです。
父の軍勢を引き継ぐ
208年になると、馬騰は衛尉として召し出しを受けました。
これは、宮廷の警備兵を監督する役目です。
馬騰は老いたので、これ以上辺境で戦い続けるのは難しいと判断し、曹操の招きに応じました。
このため、かわって馬超が偏将軍に任じられ、馬騰の軍勢を引き継ぐことになります。
その他には、弟の馬休や馬鉄らも武官の地位を与えられ、父に従って都に上りました。
この結果、馬超のみが涼州に残り、軍勢を手もとに蓄えることになります。
韓遂と手を結び、反乱を起こす
馬超は211年に、かつて自分を襲った韓遂と手を結びます。
そして、ともに曹操と戦うように促しますが、韓遂は子どもを都に人質として送っていたため、難色を示しました。
すると馬超は、「私はあなたを親と思うので、あなたは私を子と思って下さい」と述べ、都にいる父や弟たちを、見捨てる覚悟を示しました。
すると韓遂は自分も子を見捨てるつもりで馬超に同調し、反乱を起こすことを決意します。
馬超はさらに楊秋、李堪、成宜といった涼州の諸将とよしみを通じました。
そして十万という大軍を編成すると、曹操に反旗をひるがえし、潼関にまで押しよせます。
こうして馬超が大軍を集められたのは、曹操が漢中を攻略するために、軍勢を動かしたのが原因です。
涼州の諸将は、曹操は自分たちを攻撃するために軍を動かしたのではないかと疑っており、危機感がつのっていたのでした。
そうした下地があったため、馬超の誘いにのって反乱を起こしたのです。
曹操はこの事態を重く見て、自ら軍勢を率いて出陣し、馬超を迎撃しました。
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