お知らせ:現在「幕末通史」という書籍を作成中です

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「幕末通史」のご紹介

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「幕末通史」のご紹介

現在、「幕末通史」というタイトルの書籍を作成しています。

とかく複雑な幕末の情勢を、一冊で理解できる本に仕上げようと思っています。

1800年代初頭、ロシアやイギリスなど、諸外国の船が日本近海に姿を現し、鎖国体制が脅かされ始めた頃から、1877年の西南戦争の終結と、大久保利通の暗殺事件までを取り扱う予定です。
このあたりの時代を通して描くことで、幕末という状況を浮かび上がらせたいと考えています。

ペリーの来航、安政の大獄、桜田門外の変、禁門の変、長州征伐、薩長同盟、大政奉還、王政復古の大号令、戊辰戦争、征韓論、西南戦争などの重要事件を主軸に、それに関与した人々の姿を描きます。

西郷隆盛や坂本龍馬、大久保利通、木戸孝允といった、維新の英傑たちの動向も詳しく紹介していく予定です。

電子書籍の出版を、2018年中に予定しています。
(以前は今年の12月にしていたのですが、書き始めてみると、思ったより時間が必要だとわかったので変更しました。)
ボリュームは原稿用紙に換算して、4〜500枚程度を想定しています。
最初の1割程度はこのサイトで公開し、あらかじめどのような書籍なのかがわかるようにします。

価格につきましては、決定次第お知らせします。
Kindleやkoboなど、複数の電子書籍ストアで配信予定です。
オンデマンドによる印刷出版も計画しています。

なお、この本の執筆のため、しばらくはサイトの記事の更新頻度が低下しますが、ご了承ください。

※タイトルは予定ですので、変更になる可能性があります。

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以下に2万字くらいの試し読み用の文章を掲載しています。
まだ草稿の段階ですので、内容は変更になる場合があります。

幕末通史 試し読み

幕末とは、徳川幕府が日本の統治権を失い、新たに明治政府が立ち上がるまでの期間を指す、歴史上の時代区分です。

アメリカの提督・ペリーの来航によって幕末が始まった、と定義すると、1853年が始まりで、終わったのが1868年です。つまりは15年という、日本の歴史全体からみれば、ごく短い期間を指しています。

しかしこの15年間に非常に多くの事件が発生し、様々な勢力が入り乱れ、今後の日本はどのような方向に進んでいくべきなのか、という重大な課題についての模索が行われました。

それゆえに、特にひとつの時代区分として定義されています。

幕末とはすなわち、日本の変革期であったわけですが、幕末について知ることで、いかに変革とは困難で、多くの混乱や錯誤、そして流血をもたらすものなのかを、知ることができます。

そして、それらをくぐり抜けた先にあったものは何だったのかについて、書いてみようと思います。

どうして幕末という状況が発生したのか? – 鎖国による閉塞と、安定の時代

江戸時代の日本は、海外との交流をほとんどしておらず、いわゆる鎖国の状態にありました。長崎の出島でオランダや清の商人と交易が行われていたり、李氏朝鮮との国交はありましたが、それ以外の国々とは交流を絶っており、日本は国際的にほぼ孤立した状況に置かれています。

海外渡航も禁止されており、このために、当時の日本人の多くは外国人と接触した経験がなく、海外情勢についての知識も持ち合わせていませんでした。

戦国時代にはインドやシャム(タイの旧名)にまで渡航して、現地で財産を築いた商人も現れています。その頃の日本人には、海外に積極的に打って出ていく気概も持っていた者も多かったのですが、それが鎖国によって失われたのです。

幕府が鎖国政策を実施したのは、直接的には1637年に、数万のキリスト教徒たちが「島原の乱」という、大規模な反乱を起こしたことが影響しています。

幕府は再度の反乱を防ぐためにキリスト教の布教を禁じ、外国人が日本国内に居住することを禁止しました。

また、戦国時代にポルトガルから火縄銃がもたらされたことが、織田信長の戦いに見られるように、時代の変革を促進させたことがありました。

幕府はそのような、海外からの軍事技術や宗教、政治思想などの、社会を大きく変える可能性がある文物の流入を止めることで、自らの統治を安定させようとしたのです。

つまりは後ろ向きな政治方針が、鎖国の背景にあったと考えられます。

この結果として、日本は220年もの長き渡って、外部との関わりを持たない閉塞した、低成長の時代を続けることになりました。

しかし一方で、戦争のない平和な時代を過ごすことができた、という結果がもたらされてもいます。

鎖国にはこのように、国内に閉じ込められたことによって日本人のスケールが小さくなっていった、という側面と、国内の統治が安定し、長期に渡る平和がもたらされた、という二つの側面があり、功罪が半ばしているのだと言えます。

欧州の変革と、その余波

しかし、18世紀の後半になると欧州で産業革命が起こり、鎖国の継続が不可能となっていきます。

産業革命によって大量生産が可能になると、製品の余剰が発生するようになります。すると、西洋諸国は他の地域に余剰分を輸出し、より多くの利益を上げることをもくろむようになりました。

グローバリズムの起源は、この時代にあったのだと言えます。

また、欧州では近隣の国々との闘争が長期に渡って繰り返された結果、銃や大砲などの兵器の質が、他の地域を圧倒するほどに高まっていきました。

それに加え、蒸気機関の発明によって蒸気船が建造され、それまで用いられていた帆船よりも、航続距離と速度が大きく向上した艦船が登場します。その影響で、世界中のどこにでも、迅速に軍隊を送って制圧することが可能になったのです。

こうして西洋の国々が、世界各地を植民地化し、自分たちに有利な条件で交易を行い、莫大な利益を上げる時代がやってきました。

そしてイギリスやフランス、オランダといった国々は、アジアでも各地を順次植民地化し、あるいは強引に開国を迫って交易を開始させます。その流れが1800年代になって、ついに欧州から見れば東の果てにある、日本にも及んできたのです。

幕末の変革は、このような外圧によって生じており、それゆえに、日本は多大な苦難に見まわれることになりました。

鎖国によって長く停滞を続けていたことの、付けを払う時が来たのだとも言えます。

ペリー来航以前の状況

ペリーの黒船来航、がとかく有名な事件ですが、それ以前の、1800年代の初頭から、ロシアやイギリスの船舶が日本近海に姿を現しており、幕府は対応を迫られていました。

幕末の情勢の背景にあったものを理解する上で役立ちますので、まずはそのあたりの流れを紹介していきたいと思います。

日本への脅威は北と南から、ほぼ同時にやって来ました。

蝦夷におけるロシアとの軋轢

当時のロシア帝国は、シベリアを占領して東進を続け、ついに太平洋の北岸にまで国土を広げていました。すると次は南下を開始し、やがて樺太や蝦夷(北海道)にも、ロシア船が姿を見せるようになります。

そして1804年になると、ロシアの政治家で、実業家でもあるレザノフが、ロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携え、日本に通商を求めて来航しました。

レザノフは皇帝の勅許を受け、アラスカからカリフォルニアに及ぶアメリカ方面の植民事業を統括していた人物で、宮中では侍従長という要職の地位にあった実力者です。

レザノフはアメリカでの事業の成功には、日本との通商を開始し、補給拠点を確保することが必要だと考えており、そのために日本に開国を求めました。

アメリカはロシアの中心部であるモスクワからは遠く、物資の調達が十分には行いにくい環境にありました。このため、特にアラスカの移民や先住民は常に食糧難に苦しんでおり、日本で食糧を調達して輸送することは、ロシアにとって重要な意味があったのです。

しかし、鎖国をしていた幕府は半年もの間、長崎で交渉を引き延ばしたあげく、レザノフの申し出を拒否しています。

この対応によって、レザノフは話し合いをするだけでは埒が明かないと考え、アレクサンドル1世に対し、「武力を用いて脅せば、日本は開国するでしょう」と上奏をしました。

それだけでなく、長期にわたって引き延ばされたあげくに、通商を拒否されたことに報復するため、部下のフボストフ大尉に、蝦夷周辺の日本領への攻撃命令を出しています。

レザノフはずいぶんと過激な行動に出ていますが、これにはもうひとつ理由がありました。

レザノフは交渉中に病気にかかり、療養のために長崎に上陸をしたのですが、その際に囚人と同じ扱いを受けたことに憤慨しています。レザノフは貴族の出身でしたので、粗略な扱いに憤る気持ちが強く、これも報復を引き起こした原因になったと考えられます。

この対応から、当時の幕府はロシアの力を侮っていたことがわかります。

事実、対応を決定した幕閣の土井利厚は「ロシアの使節が腹を立てるように乱暴な対応をすれば、二度と来なくなるだろう。もしもロシアがそれを理由に武力を用いてきても、日本の武士は遅れを取らない」などと豪語していました。

この事件は幕閣の無知と、礼節を欠いた対応が原因だったことになります。

レザノフは攻撃中止を命じるも、フボストフは独断で攻撃を開始する

しかし事態はレザノフの思い通りには進まず、アレクサンドル1世はこの上奏を受け入れそうにありませんでした。これを受け、レザノフは自ら上奏を撤回しています。

そしてレザノフはフボストフへの命令を、アメリカに向かうようにと変更しました。ところがフボストフは、アメリカに向かうにしても、日本への攻撃命令はそのまま有効であると思い込み、1806〜7年にかけて、択捉島や樺太を襲撃して、略奪と放火を行いました。

このために、幕府は東北の諸藩に命じ、3千の兵を派遣して蝦夷の防衛を強化します。しかし、諸藩の軍は火器の性能でロシア軍よりも圧倒的に劣っており、各地の戦闘で苦戦を強いられ、防衛拠点を放棄して撤退しています。

この時に日本側は、戦国時代に使われていた大砲や火縄銃を用いており、200年もの間、装備がまったくと言っていいほど発達していなかったことがわかります。

これに対し、ロシアはナポレオン戦争を戦っていた時期で、武装が強化されており、装備の質には隔絶した差がありました。

このようにして、技術や軍事力で遅れを取っていくのが、鎖国の悪しき影響なのだと言えます。

幕府は事態を重く見て、「ロシア船打ち払い令」を出します。これはロシア船が陸に近づいて来たら、民間船であっても攻撃を許可し、上陸した船員は逮捕、もしくはその場で切り捨てることも許すという、厳しい命令でした。

それまでは、漂着船には食糧を支給して穏便に引き取らせる政策を取っていたのですが、ロシアの攻撃によって幕府の態度が硬化したのです。

この事態に見られるように、1800年代の初頭から、既に西洋の脅威は日本に迫っていたのでした。

ロシア軍の攻撃は、許可のない軍事行動に不快感を示したアレクサンドル1世の命令によって中止され、1808年に全軍が撤退しています。

攻撃に加わった者たちは海賊行為を働いた罪で処罰されており、ロシア政府は無関係であったことがわかります。

なお、事件を引き起こしたレザノフは1807年に病死しており、このために処罰されることはありませんでした。

この事件は当時の年号から、「文化露寇」と呼ばれています。

こうして生じた日本とロシアの諍いは、海商の高田屋嘉兵衛とロシアの軍人・リコルドの尽力によって、攻撃はアレクサンドル1世の命令ではなく、レザノフとフボストフの独断であったことが証明され、1813年に両国は和解に至っています。

こうしてロシアとの問題はひとまず解決しましたが、日本の周囲に西洋の船が姿を現す傾向は、ますます強まっていくことになりました。

一貴族であるレザノフの攻撃を食い止めることができなかったわけですので、当時の日本の軍事力は、ひどく脆弱だったことがわかります。

この事件の被害は誇張されて日本各地に伝わり、軍事力の強さによって成立していた幕府の権勢が、揺らぎ始めるきっかけになりました。

およそ50年後に発生する幕末の情勢を、先取りするような事件であったと言えます。

長崎でフェートン号事件が発生する

北の地でロシアとの抗争が発生していたのと同じ頃、長崎にイギリスの軍艦・フェートン号が入港し、オランダ商館員を捕縛する事件が発生します。

この頃の欧州では、皇帝ナポレオンが率いるフランスと、イギリスを中心とした同盟軍との間で戦争が続けられていました。この過程で、オランダはナポレオンに占領され、オランダの植民地もフランスの支配下に置かれることになります。

これを受け、イギリスはフランスの力を弱めるために、アジアのオランダ植民地を接収していきました。その余波として、1808年に、イギリスが長崎に寄港しているオランダ船の拿捕を目的として、フェートン号を侵入させる事件を起こしたのです。

フェートン号は初め、オランダ国旗を掲げて入港したため、2名のオランダ商館員がこの船を出迎えようとしました。ところがボートで接近すると、商館員たちは突如として拉致され、フェートン号に連行されてしまいます。

これと同時にフェートン号はオランダ国旗を降ろし、イギリス国旗を掲げ、武装したボートを繰り出してオランダ船の捜索を行いました。

幕府の出先機関である長崎奉行所は、オランダ商館員の解放を要求しますが、フェートン号の艦長・ペリューはこれを無視し、水や食料を提供するようにと返事をしてくるだけでした。

この傲岸な対応に憤った長崎奉行の松平康英は、警備を担当する佐賀藩と福岡藩に、港の防衛体制の強化と、フェートン号への攻撃準備を命じます。

しかし、佐賀藩は長く続いた平和に油断しきっており、幕府に無断で警備兵を、規定の十分の一にまで減らしていました。このために、本来は千人のはずの警備兵が百人しかおらず、攻撃に踏み切ることができませんでした。

この事態を受け、松平康英は急遽、大村藩や熊本藩などの九州諸藩に派兵要請を出します。

やがてペリューは商館員を1人解放しつつ、水や食料を重ねて要求し、これに応じない場合には、港に停泊している船を焼き払うと脅迫してきました。

兵力が不足し、防衛が困難となっていたため、松平康英はひとまずこの要求を受け入れます。それでも水の提供は少量にして、増援が駆けつけるまでの時間稼ぎを行いました。

やがて大村藩の藩兵が到着すると、松平康英はフェートン号への攻撃を決意します。しかし、その準備が整うよりも先に、食糧を受け取ったペリューは残るもう1人の商館員も解放し、長崎港外へと去って行きました。

松平康英が切腹し、佐賀藩や幕府は危機を認識する

こうして、結果としてはさしたる損害はなかったのですが、松平康英はフェートン号に屈辱を与えられ、国威を損なったことを恥じ、責任を取って切腹しました。

さらに、無断で兵力を減らしていた佐賀藩は幕府から追及を受け、家老が切腹し、藩主の鍋島斉直が100日間の閉門(家に押し込められる刑罰)の処分を受けます。

この時のフェートン号の行動は、戦争と関わりのない第三国である日本への礼節を欠いた傍若無人なもので、当時のイギリスが持っていた荒々しさと、危険性が認識されるようになります。

ロシアの攻撃と合わせて、幕府は日本に危機が迫りつつあることを把握し、それまではオランダ語が専門だった通訳たちに、ロシア語と英語の習得も命じました。そして英和辞典も編纂させるなどして、西洋の情報を入手しやすくし、新しい状況に対応するための準備を整えていきます。

しかし言語に関する対応に留まっており、武装の強化や開国の準備といった、本格的な改革には着手しませんでした。

一方で、佐賀藩はこの事件の反省から、軍備の増強に力を入れ始めました。そして幕末の頃には、強力な近代兵器を備えた軍隊を編成し、明治政府の成立に大きな影響を及ぼすことになります。

このあたりの対応の差が、幕府の崩壊と新政府の成立、という事態につながっていった、と見ることができるでしょう。

西洋諸国に接し、脅威を知って軍事力の強化を図る、という諸藩の行動が、幕末には頻繁に見られるようになりますが、これはその発端になった事件だとも言えます。

ともあれ、こうして北と南から同時に西洋の脅威にさらされたことで、日本国内では、少しずつ危機感が高まりをみせていくことになりました。

この影響で、やがて知識人たちの中には、鎖国をやめて開国すべきだと主張する者たちも現れましたが、幕府はこれを退けています。

この時点では、まだごく一部の人々が反応したにとどまっており、開国を巡る議論が盛り上がりを見せるまでには、しばしの時を必要としました。

イギリスの捕鯨船員が水戸に上陸する「大津浜事件」が発生する

続いて、幕末に世を席巻した、「尊王攘夷」思想が発生するきっかけとなった事件を紹介します。

1820年頃になると、日本の近海には、イギリスやアメリカの捕鯨船が盛んに姿を見せるようになります。当時は機械の潤滑油として鯨油に大きな需要があり、このために捕鯨が盛んに行われていたのです。

そして1824年に、太平洋で捕鯨をしていたイギリス船が、船員の壊血病に苦しめられ、これを解決するために、野菜や果物を求めて常陸(茨城県)に上陸します。

この事件は上陸した浜辺の名前から、「大津浜事件」と呼ばれています。

壊血病とは、ビタミンCの欠乏によって皮膚や粘膜から出血が発生する病気です。長期間、補給なしで船舶に乗っていると、新鮮な野菜や果物を摂取できなくなり、この病気が発症しやすくなるのです。

この時は取り調べの結果、壊血病の対応のために上陸しただけだとわかり、幕府はイギリス船に食糧や水を提供し、穏便に引き取らせています。

しかし、常陸を領地とする水戸藩の学者・藤田幽谷とその弟子たちは、イギリスがやがて日本に脅威をもたらすであろうことを認識しており、これを排除するために、上陸したイギリス船員たちを切り捨ててしまうべきだという、過激な計画を立てました。

そして実際に切り込みをかける人員まで選ばれたのですが、実行されるよりも先にイギリス船が出航したために、未遂に終わっています。

こうして水戸藩がイギリス人への襲撃を行おうとしたのは、先のフェートン号事件の影響があったと考えられます。

水戸藩の尊王攘夷思想や、国学について

この水戸藩は、徳川家康の6男・頼房を藩祖とする、「御三家」という高い格式を持つ藩です。歴代の藩主の中には「水戸光圀」として知られる人物がおり、彼が水戸の藩風に、大きな影響を及ぼしています。

光圀は若い頃から歴史に強い関心を抱いており、やがて多額の費用を投じ、「水戸学」と呼ばれる独自の歴史研究を行わせました。

この水戸学では、天皇は有史以来、日本を継続して支配してきた神聖な存在であると定義し、幕府はその天皇から、統治権を委ねられているに過ぎない、と位置づけています。

また、天皇は天照大神の血を引く神の子孫であるとされ、神の子が支配する日本は神聖な国(神州)であり、それが野蛮な諸外国に侵されるのは、許されないことだとする、天皇と日本を神聖視する思想を打ち立てるにも至ります。

現代から見れば偏りの強い思想ですが、江戸時代には同じような思想を唱える学者が数多く現れており、それらは「国学」と呼ばれました。

長く続いた鎖国によって、海外の情報が入らなくなり、その結果として、思考が内側で凝り固まり、日本を特別視する思想が誕生しやすくなっていたのかもしれません。

また、国学の誕生には、儒学や朱子学などの、中国伝来の漢学の力が強まっていた中で、日本独自の思想を見いだそう、とする潮流が発生したことも影響しています。

国学者たちは日本と中国を比較し、日本の独自性はどこにあるのだろうかと考え、模索しました。その結果、中国は数百年で王朝が交代するのに対し、天皇の家系は二千年以上前からずっと続いており、その継続性において日本の方が優れている、という結論を出すに至ります。それゆえに、国学では天皇の存在が重要視され、崇拝すべき対象であると定義されていくことになります。

このような、天皇は日本において最も尊貴な存在で、国体の中心であるとみなす思想は、「尊王思想」と呼ばれます。

また、その天皇が支配する神聖な国土を侵されぬように、武力をもって防衛し、外国勢力を排除しようとする思想は、「攘夷思想」と呼ばれました。

「攘」は「はらう」という意味で、「夷」は「野蛮な外国人」といった意味ですので、すなわち攘夷は「外国人を打ち払う」という意味になります。

この二つを合わせて「尊王攘夷」という思想が水戸藩で唱えられるようになり、幕末において、大きな影響力を持ちました。それが興隆したきっかけが、水戸へのイギリス船員の上陸事件だったのです。

客観的に見れば、イギリスの船員が病気になって困っていたので、幕府が人道支援を行った、というだけの事件でしたが、水戸藩に対しては、思想的に重大な影響を及ぼしました。

このことがやがて、水戸藩が幕政改革に携わったり、「桜田門外の変」で井伊直弼を殺害する事件にもつながっていくことになります。

当時の隔絶した日本と西洋の軍事力の差から言うと、短絡的な攘夷は無謀な思想だったのだと結論づけられますが、この頃の日本人は、直接、西洋の脅威に身をさらされたことのない人たちがほとんどでした。

このため、現状の体制のままで軍事力を強化し、勇気を奮い起こして戦えばそれでどうにかなるはずだと信じられていたのです。

この考えは、後に日本中に広まっていくことになります。

蘭癖大名

このように、水戸藩では西洋諸国に対する強い反発心が醸成されていきましたが、一方では、西洋の技術や学問に関心を抱く人々も現れています。

その流れの中で、大名自身が強く西洋に関心を持ち、蘭学(オランダ由来の西洋学問)の摂取に取り組む事例も現れるようになりました。

特に薩摩藩主の島津重豪は熱心に蘭学に取り組んでおり、自らもローマ字が書け、オランダ語が話せるほどでした。そして領内に天文学や医学の学問所を設け、町人や農民にも修学を許可するなど、開明的な政策を取っています。

さらに、長崎で医療活動を行っていたドイツ人の医師・シーボルトと面会して懇談し、海外情勢の知識を得るなどしていました。

こういった大名たちは「蘭癖大名」と呼ばれ、鎖国をやめて国を開き、西洋の技術や知識を積極的に取り入れていくべきであるとする、開国派の源流として、情勢に影響を及ぼしています。

薩摩藩では1823年に蘭書を独自に研究し、「伊呂波丸」という西洋式の帆船を建造した者まで現れており、この頃からすでに技術の取り入れは始まっていました。

「いろは」と名前が付けられたのは、これを初めとして、たくさんの船を造って交易を盛んにしたい、という製造者の意図が込められており、既に開国志向を抱く者が現れていたことがわかります。

薩摩藩は当時、唯一の外国との窓口になっていた長崎と地理的に近く、また、琉球(沖縄)を服属させて間接的に諸外国と交流を持っており、このために、当時の日本の中では珍しく、海外へと意識が向きやすい環境にあったのです。

これは他の九州や中国地方、四国などの藩でも同様の傾向が見られ、幕末の情勢を、西国の諸藩が主導する要因となっていきます。

異国船打払令

さて、少々話を戻しますが、大津浜事件の後で、水戸では別の事件が持ち上がっていました。

それは水戸の海辺の住民たちが、数年に渡ってイギリス人たちと交流を持ち、物々交換を行っていたことが発覚し、数百人が取り調べを受けるという事件でした。

さらにイギリスはこの頃、複数回にわたって浦賀に使者を送り、通商を求めるようにもなっています。

イギリスの影響が日本に迫りつつあることを感じた幕府は、鎖国体制を再度強化するため、1825年に「異国船打払令」を出します。これは日本の沿岸に外国船が接近してきたら、発見次第ただちに砲撃すべし、とした強硬な命令で、もしもこれを逃れて外国人が上陸したら、逮捕するようにとも命じています。

ロシアとの抗争の際に出されていた命令が、ここで全国規模のものとなって復活したことになります。

この結果として、しばらくの間は鎖国体制が維持されますが、やがて隣国で起きた戦争によって、幕府の方針は転換していきます。

アヘンの密貿易による、清とイギリスの軋轢

ここからはしばらく、幕府の外交方針に多大な影響を与えた、アヘン戦争について書いていきます。

この戦争を知ることで、当時の西洋諸国がいかに苛烈な存在であったかということと、幕府の対応が弱腰になっていった理由がわかるからです。

イギリスは1757年以来、アジアの大国である清(当時の中国の王朝)との交易を開始していました。

しかし、欧州で需要のある茶や陶磁器、絹などを清から輸入したものの、イギリスは清人たちに売れる商品を用意することができず、大幅な輸入超過が続きます。イギリスはこの頃、綿織物を主に扱っていましたが、清の国内では十分に自給ができていましたので、売り込むことができなかったのです。

この状況を改善するため、イギリスは麻薬であるアヘンを密かに輸出することにしました。

イギリスの植民地であるインドでは、アヘンが栽培されており、イギリス東インド会社がその専売権を保有していました。このため、その気になればイギリスはいくらでも、アヘンを清に輸出できる状況にあったのです。

貿易の均衡のために麻薬を他国に輸出するなど、現代では考えられない話ですが、当時は奴隷貿易もありましたし、このような非人道的な商業活動が平然と行われていました。

アヘンの密輸が始まると、ほどなくして清で蔓延するようになります。やがてその害に気づいた清政府はアヘンの輸入を禁止しますが、なかなか密貿易を根絶することはできませんでした。

この結果、清の国内では風紀が乱れ、麻薬の害によって健康を損なう者が増えるなど、大きな社会問題となっていきます。さらに、これまでは清にとって輸出超過であった交易が、輸入超過へと転じます。この結果、基盤通貨である銀が大量に流出し、その価格が高騰することになりました。

清では銀で税金を納入することになっていましたので、銀が高騰すると、収める税額が増大することになります。このために民衆が苦しめられ、国家の財政を不安定化させることにもつながっていきました。

この事態を受け、清は1838年から、ついにアヘンの本格的な取り締まりを開始します。

特命を与えられて広州に赴任した林則徐は、イギリスの商人たちに対し、アヘンを持ち込む者は死刑にする、という厳しい通告を行います。

林則徐は賄賂を受け付けない清廉な役人で、イギリス商人たちから容赦なくアヘンを没収し、すべて処分して無害化させました。この時の没収量は2万箱・1400トンにも達し、膨大な量のアヘンが清に持ち込まれていたことがわかります。

そして林則徐はイギリス商人たちに「アヘンを清に持ち込まない」という誓約書の提出を義務づけましたが、これに従わない者たちを広州から追放し、断固としてアヘンを取り締まる姿勢を見せました。

このあたりの流れを見るに、道義的に問題のある行動を取っていたのはイギリスの側で、清に非はなかったと言えるでしょう。

しかしイギリスは清の取り締まりに対し、武力をもって応じることを決定します。

イギリスは開戦を決定する

林則徐によるアヘン取り締まりの報告を受けたイギリスの内閣は、清への遠征軍の派遣を閣議決定しました。

しかし、開戦の大元の理由がアヘンの輸出という、道義的に問題のあるものでしたので、野党は不義の戦争であるとして強く反対します。

しかしパーマストン外相が、反対の論陣を張った野党議員の失言を捉えてこれを抑え込み、271対262という僅差で派兵が承認されました。

これを受けてイギリス海軍は軍艦16隻、武装汽船4隻の艦隊を編成し、4千人の陸軍とともに清に向かいます。(後に追加で軍が派遣され、総勢で2万になっています)

林則徐は広州に軍勢を集結させ、防衛体制を敷きましたが、イギリスはそちらには向かわず、手薄な地点に上陸して北上し、首都の北京に向かって進軍しました。さらに北京の近海を艦隊が封鎖し、清政府を圧迫します。

こうして防衛に失敗した林則徐は解任され、辺境に左遷されてしまいました。

この事態を受けて清政府は動揺し、和平交渉を行い、いったんは賠償金の支払いや、香港の割譲を盛り込んだ条約を締結します。しかしイギリスが撤兵すると、清政府の内部では強硬論が盛り上がり、条約の履行を拒否し、再度戦いが発生することになりました。

この時に清は20万という、イギリス軍の10倍もの大軍を動員しています。

しかし、イギリス軍は数の差をものともせず、制海権を確保すると、長大な海岸線を持つ清の各地に出没して攻撃を行い、清軍を各個に撃破していきました。

軍勢の数は圧倒的に清軍の方が多いのですが、防衛しなければならない地点が多く、このために軍が分散され、イギリスの攻撃に有効な対策を取ることができなかったのです。

さらに海戦では、蒸気機関を備え、快速に動き回る武装汽船が猛威を振るい、一方的に清の帆船を沈め、僚船の侵入を誘導し、イギリスに圧倒的な勝利をもたらしました。そしてイギリス軍は、揚子江に侵入して運河を塞ぎ、北京への補給を絶つことに成功します。

相次ぐ敗戦によって清政府は戦意を喪失し、イギリスとの間に南京条約を締結しました。

この結果、清は5港を自由貿易港として開港し、治外法権を承認、関税自主権を放棄させられるなど、イギリスの要求を全て飲まざるを得なくなります。さらに多額の賠償金の支払いと、香港の割譲も行われ、清に対するイギリスの優位が確定しました。

この南京条約は、後に日本が諸外国と結ぶ通商条約のひな形になっています。

この戦いで清は20万の軍を動員し、2万人が死傷しました。

一方でイギリスは2万の軍を動員し、520人が死傷した、という結果になっています。

つまり、イギリスは戦力が10分の1だったにも関わらず、与えた損害はおおよそ40倍だったということになります。

イギリスがアジアの大国である清を、こうも圧倒したわけですので、当時の西洋とアジアの軍事力には、隔絶した差がついていたことが、誰の目にも明らかになりました。

日本への影響

清が大敗した、という情報はまもなく日本にも伝わり、幕府や諸藩、そして知識人たちの間に動揺が広がります。

当時の日本の人口は3千万程度で、清は4億を超えていました。

10倍以上の規模を持ち、日本とさほど軍事技術に差がない清が敗れたことで、イギリスの脅威が、日本人にも身に迫るものとして実感されるようになったのです。

現代とは違い江戸時代までは、中国の歴代王朝は日本が吸収すべき、優れた文化や思想を生み出した大国だと見なされていましたので、その敗戦の衝撃は、非常に大きかったと思われます。

たとえば幕府が官学として指定し、広く学ばれていたのは朱子学や儒学でしたし、それ以外で影響力が強かった陽明学も、いずれも中国から伝わってきた学問です。

そして日本もまた清と同じく、長大な海岸線を抱える国ですので、もしも海軍力に優れるイギリスが本腰を入れて攻撃をしかけて来たら、ひとたまりもなく敗北するのは確実でした。

さらに、イギリスは麻薬の売買を禁止されたら侵略をしてくるという、野蛮な行動を起こしたわけですので、いつ日本にも理不尽な理由で攻め込んでくるか、わかったものではありません。

この事態を受け、幕府は異国船打払令を取り下げ、代わって「薪水給与令」を出します。

この命令は、漂流船に対しては、水や食糧を提供して穏便に引き取らせる、というかつての方針に立ち返るもので、安易に外国船を攻撃した結果、それを理由に侵略を受けることを防ぐための措置でした。

阿部正弘が改革を開始する

こうした情勢の変化を受け、1845年になると、老中首座となった阿部正弘が幕政の改革に取り組むようになります。

老中とは現代でいう大臣のような立場で、老中首座は首相に当たる存在だと言えます。

阿部正弘は海防掛という、それまでは臨時職であった、外交や海防を担当する役職を常設にし、幕臣の中から有能な人材を取り立て、今後日本に迫るであろう、諸外国の開国要求に対応するための準備を進めていきました。

また、それまでの幕府の政治は、将軍と譜代大名の専制体制が敷かれていましたが、阿部正弘は諸藩の力も活用せねば、とても乗り切れないだろうという認識を持っていました。

(譜代大名とは、徳川氏に古くから仕える家柄の大名家で、江戸時代において、老中や若年寄といった幕府の重役の地位を独占していました。具体的には井伊家や本多家、酒井家などがこれに当たります。)

幕府は日本を統治する存在でしたが、その直接の支配地域は関東など、あくまで日本の一部に過ぎず、日本全体を思いのままに動かせるほどの権力は持っていませんでした。

当時は米の取れ高を示す石高で土地の経済力が示されていましたが、日本全国で3000万石ほどで、そのうち幕府の直轄領は400万石です。幕府に仕える旗本たちの領地300万石を入れても、全部で700万石で、日本の4分の1以下の領域しか、直接には支配していませんでした。

残りの土地は260の諸藩に分割され、幕府の統制は受けるものの、それぞれに自治を行っています。このため、阿部正弘は水戸藩の徳川斉昭や、薩摩藩の島津斉彬など、それまでは幕政に参加できなかった立場の大名たちにも意見を求め、参政を促す姿勢を見せるようになっていきました。

このようにして、幕府にも変革を進めようとする政治家が登場しましたが、250年もの間続いてきた体制を内部から変えるのは容易ではなく、保守的な勢力の抵抗を受け、なかなか抜本的な変化を起こすことはできませんでした。

洋学者の登場

また、こうした事態を受け、西洋の学問を身につけた、洋学者たちの存在が重視されるようになっていきます。

洋学者の代表的な存在である佐久間象山は元々、儒学を学んでいた伝統的な知識人でしたが、主君の松代藩主・真田幸貫の命を受けて洋学の修得に励むようになります。

これは真田幸貫が能力を見込まれて幕閣に取り立てられ、1842年に海防掛に就任したためで、佐久間に自身の補佐ができるだけの知識の習得を命じたのです。

佐久間は学習能力が人並み外れて優れた人物で、短期間で外国語を習得し、多数の書物を読破し、海防や教育改革に関する意見を幕府に提出するようにもなっていきます。

やがて佐久間は弟子をとって人にも洋学を教えるようになり、門下には吉田松陰や勝海舟、坂本龍馬などの人材が集いました。

こうして学問の世界でも変革の波が生じ始め、そこから登場した思想家たちが、政治情勢にも大きな影響を及ぼすようになっていきます。

なお、松代藩の真田家は高名な幸村の兄・信之が興した大名家です。外様大名であり、本来は幕閣になれる立場ではありませんでした。

にもかかわらず真田幸貫が幕閣になれたのは、8代将軍・徳川吉宗のひ孫で、真田家に養子に入った人物だったからです。

幸貫は佐久間の抜擢に見られるように、開明的な人物で、松代藩の変革を進めた名君として名前を残しています。

清の学者・魏源の影響

そしてこの頃に、日本では清の学者・魏源の書いた「海国図志」という書物が読まれるようになっていました。

事の始まりは、アヘン戦争で敗北した林則徐から資料の提供を受けたことにあり、魏源はそれを元にして、世界の地理や社会情勢についての著述を行います。そして1843年に「海国図志」の初版を出版しました。

この本の中で、魏源は「西洋の先進技術を学び、取り入れて国力を高めることで、侵略から自国を守るべきだ」という意見を述べており、やがてはこの方針が、日本において主流の位置を占めることになります。

そして近代的な軍隊の創設や、産業を育成する必要を説き、西洋に遅れをとった東洋の国々が取るべき指針を掲げました。

魏源は書斎に籠もっていた人ではなく、アヘン戦争の際にイギリス軍と交戦した経験を持つ軍人でもありましたので、西洋の脅威を正確に認識でき、有効な対処法を考えることができたのです。

この本が日本に輸入され、佐久間象山や吉田松陰、橋本左内といった開国派の知識人たちに読まれ、深い感銘を与えました。

また、幕府でも西洋の事情を知るために活用するなど、多方面で読まれています。

このように、清では先覚的に改革の必要を訴える知識人が登場していたのですが、清政府は時勢に対する認識が甘く、香港を割譲したのだから、イギリスは満足してこれ以上は攻撃してこないだろうと判断し、改革に向けて動き出すことはありませんでした。

中国は日本よりも国のサイズが大きいので、変革が発生するまでに、時間がかかる傾向があったのです。

このため魏源の見識はひとまず日本でのみ、用いられることになります。

アメリカが日本への開国の働きかけを強める

アヘン戦争によって日本が動揺し、変化を始めた頃、西洋諸国の中で日本に積極的に開国を働きかけてきたのは、アメリカでした。

アヘン戦争の後で、アメリカもまた清と外交交渉を行い、南京条約と同様の、望厦条約を締結することに成功します。これによって清との国交が開かれ、交易を行うようになりました。そうなると、清との間にある日本とも国交を開いておいた方が、補給等の面で都合がよいということになります。

このため、アメリカは清についで日本とも交渉を行うことにし、1846年に、浦賀に東インド艦隊司令官のビドルを派遣しました。

東インド艦隊とは、アメリカがアジア諸国と国交を結ぶために派遣していた艦隊で、それまでにシャムやマスカット(中東のオマーンの都市)、そして清との通商条約の締結に成功しています。

この時にビドルは本国から「辛抱強く、日本にアメリカへの敵対心を持たせないように気をつけて交渉せよ」と命令を受けていましたので、武力に訴えることはなく、平和的な態度に終始しています。この結果、幕府はオランダ以外と通商を行う意志がないことを通告し、アメリカの申し出を拒否しました。

ビドルは2隻の帆船を率いてやって来たのですが、蒸気船ではなかったので、幕府は恐れを抱かなかったようです。幕府は和船でビドルの乗艦を包囲させ、上陸を許しませんでした。

なお、浦賀が窓口になっていたのは、三浦半島の先端にあり、江戸湾の入り口に位置していたため、外交交渉の拠点にするのに適していたからです。

ビドルは武力を用いることができない今の時点では、日本を開国させるのは難しいと判断し、浦賀を出航して去って行きました。

これが日本とアメリカとの、外交関係の発端になっています。

2度目の来航

ビドルの来港の3年後、1849年になると、今度は長崎に東インド艦隊のグリンがやって来ます。

この時の目的は日本の開国ではなく、長崎の牢に入れられていた、15名のアメリカ捕鯨船員を救出するためでした。この船員たちは蝦夷で難破して漂着した後、捕らわれて長崎に送られていたのです。

グリンは日本の法に配慮し、注意深く、しかし断固とした交渉を行って自国民を救出するように命じられており、先のビドルよりも強気な態度に出てきます。

元より幕府は捕鯨船員たちを、オランダに依頼してアメリカまで送り届ける気でいましたので、グリンの要求通りに引き渡しています。しかしグリンは、武力の行使も辞さないことをほのめかして交渉したのが、この成功をもたらしたのだと判断します。そして本国に、そのような報告書を提出しました。

すなわち日本に対しては、武力を背景に交渉をした方がやりやすいと、アメリカの軍人たちに認識させたのです。

この報告が、次に訪れるペリーの行動に反映されることになります。

ラナルド・マクドナルドと日米関係

なお、この時に捕らわれていた船員の中に、ラナルド・マクドナルドという、初期の日米関係に、重大な影響を及ぼした人物がいました。

マクドナルドはスコットランド人とインディアンのハーフでしたが、インディアンの親戚に、自分たちのルーツは、はるか西の島から渡ってきた日本人だ、という伝承を教えられたことがありました。

このため、冒険を好む性格だったこともあって、当時はアメリカ人にとって未知の国だった日本に、強く興味を抱くようになります。

やがてマクドナルドは、まだ鎖国中だったにも関わらず、日本を訪れて日本語を学び、日本文化をよく知りたいと考えるようにもなりました。これにはインディアンの血統が原因で失恋をし、アメリカを離れたい気持ちになっていたことも影響しています。

マクドナルドは務めていた銀行を辞め、捕鯨船に乗り込むと、周囲の反対を押し切って蝦夷に渡航し、漂流者のふりをして海岸をさまよいました。漂流者であれば、捕まっても殺されることはあるまいと判断していたのです。そして10日ほどをアイヌ人たちの元で過ごした後、やがて密入国の疑いで捕縛され、長崎に送られました。

取り調べを受けるうちに、日本文化に興味を抱くマクドナルドの姿勢が、長崎奉行から好意を持たれるようになります。そして、既に多少は日本語を覚えていたこともあって、マクドナルドは長崎通詞(通訳)たちの英語教師を務めることになりました。

教師をしていたのはグリンの解放交渉が成立するまでの短い期間でしたが、この時に教えた森山栄之助という通詞が、後にペリーとの交渉で通訳を務めることになります。

マクドナルドは帰国後、「日本は未開の国ではなく、秩序だった社会を形成し、礼儀正しい人々が住む国であり、文明の水準はとても高い」と記した書簡を議会に提出し、アメリカ政府の対日観に大きな影響を与えました。

当時の日本は西洋諸国から、おとぎ話に出てくるような謎の国として扱われていたのですが、マクドナルドの報告によって、いくらかはその実態が知られるようになりました。この結果、アメリカは日本に対して穏健かつ、好意的な態度で接するようになります。

マクドナルドは1894年にアメリカで亡くなるのですが、その際に「さようなら」と、日本語で親しい人に別れを告げた、という逸話が残っており、最後まで日本に好意的だったことがわかります。

アメリカ政府はペリーに対し、平和的に交渉をするようにと命じるのですが、それにはマクドナルドの報告が影響を与えていると考えられます。

当時の日本人たちがマクドナルドに丁寧かつ親切に接したことが、初期の日米関係を、良好なものにしたのだということになります。

ペリーの来航

そして1853年になると、ついにペリーの「黒船来航」事件が発生します。

最初の交渉から7年が経過していましたが、アメリカはこの間にメキシコとの戦争に勝利してカリフォルニア州を獲得し、太平洋の沿岸にも良港を得ていました。これによって中国との交易路の重要性が増し、日本を開国させることの意味も大きくなっていきます。

このため、フィルモア大統領は東インド艦隊司令官のオーリックに、日本との国交の樹立を命じました。しかしオーリックは間もなく組織内のトラブルによって職を追われ、代わって、かねてより日本への遠征を希望していたマシュー・ペリーが、この役目を担うことになります。

ペリーは造船所の所長を務め、アメリカの蒸気船団の成立に貢献した、海軍の軍人です。その後は本国艦隊の司令官を務め、アメリカ海軍の最高位である代将に就任するなど、順調に出世を遂げていました。

しかし、戦争で名を挙げる機会は得られず、アメリカ国内で英雄として知られる兄オリバー・ペリーに比べると、一般的な知名度のない人物でもありました。そのあたりを気にしていたのか、まだアメリカにとって未開拓の地であるアジアに向かい、日本との外交交渉を成功させ、名を挙げたいと考えていたようです。

ペリーは先のグリンの例を参考に、自らが建造に関わった蒸気船団を引き連れ、日本を圧迫して開国させよう、という計画を立てます。

ペリーがこれまでの使節と異なっていたのは、上から命じられて、単に任務をこなすために日本にやって来たのではなく、自主的に日本についての研究を行い、開国させるための手段を周到に検討していた点にありました。このため、その計画は実効性が高く、幕府はペリーの要求を退けるのが困難な事態に陥ることになります。

この時も、政府から平和的に日本に接するように命じられ、武力行使は禁じられていましたが、威嚇して圧迫し、いざとなれば戦う覚悟もあると匂わせつつ、交渉をしようとペリーは考えていました。

幕府にアメリカ側の意図は完全にはわかりませんので、はったりをきかせて交渉を成功させるつもりだった、ということになります。

琉球から浦賀に向かう

ペリーは海軍長官から日本との交渉の自由裁量権を与えられ、大統領の親書を携え、アメリカ艦隊が寄港している上海へと向かいます。

ペリーは艦隊を率い、まず琉球(沖縄)に向かって寄港と補給の許可を要求します。そして艦隊の威力を背景に、これを受け入れさせました。こうして、ペリーは琉球を拠点として日本に向かう体制を構築します。

琉球は当時、薩摩藩の支配下にありましたので、この事態は薩摩藩主・島津斉彬から阿部正弘へと通報され、両者は危機感を共有しています。

その後、ペリーは2隻の蒸気船と2隻の帆船を率い、ついに1853年の7月に、浦賀沖に姿を現しました。

これまでに浦賀を訪れていた外国船はいずれも帆船でしたので、日本人は、この時に初めて大型の蒸気船の威容を目にして驚愕し、大変な騒ぎとなります。

ペリーが旗艦にしたのはサスケハナ号という蒸気フリゲートで、当時としては最大級の全長(78.3m)を誇る巨艦でした。この船の姿を見せつけることで、日本人を威圧しようと考えたのだと思われます。

なお、この時に蒸気船が日本人たちから「黒船」と呼ばれたのは、防水・防腐のために、船体が黒い樹脂で塗られていたからでした。

日本人たちからの注目を集める中、ペリーは幕府に事前に連絡をした上で、アメリカ独立記念日を祝う、という名目で盛んに空砲を撃ち鳴らしました。この時に艦隊は合計で73門の大砲を備えており、空砲を撃ち鳴らすことで、幕府を圧迫する意図があったと思われます。

この時の来航は、前年にオランダから通告されており、琉球の件で薩摩藩から報告を受けていたこともあって、幕府は事前に承知していました。(もっとも、大半の幕閣は、オランダの通報を信じなかったようです)

しかし、いきなり蒸気船が江戸湾の入り口に姿を現し、許可を取っていたとは言え、大砲を使用したことには、重大な脅威を感じたと思われます。蒸気船に乗船して様子を見てきた幕府の役人は、艦隊の武装を過大に誤認して上層部に報告しており、かなりの恐れを抱いていたことがうかがえます。

幕府は浦賀奉行所から役人を送ってペリーの意図を確認し、大統領の親書を渡すことが目的であると把握します。

しかしペリーは下級の役人に親書を渡すことはできないとして、もっと高位の役人をよこすようにと伝えました。それまでの幕府は、下級の役人に交渉を担当させ、自分には決定権がないとして引き延ばさせ、うやむやにして開国要求を退けて来ましたが、ペリーはそれを把握しており、責任を持てる人間を出すようにと要求したのです。

また、外交の窓口になっていた長崎ではなく、いきなり浦賀に乗り込んだのも、幕府の引き延ばしを許さず、即時に回答を得るための処置でした。

ペリーの動きを見るに、それまでの幕府の対応をよく研究して、開国が拒否できないように仕向ける策を取っており、そのために成功したのだということがわかります。

この時に役人は、4日待って欲しいとペリーに伝えますが、ペリーは3日までなら待とう、と答えた上に、もしも責任を持てる人間をよこさないのであれば、江戸に上陸し、将軍に直接親書を手渡す、と伝えて役人を圧迫しました。

さらに短艇を浦賀湾に侵入させ、測量を行わせるなど、上陸に備えた行動を実施し、威圧を加えています。

当時の幕府には、蒸気船を追い払えるだけの海軍力もなければ、沿岸の備えもありませんでしたので、ペリーの高圧的な態度を退けることができませんでした。また、下手に手を出すことで、アヘン戦争の二の舞となることを、恐れる気持ちもあったと考えられます。

このため、幕府はひとまず大統領の親書を受け取り、対応を考えるための時間を稼ぐことにします。

阿部正弘は久里浜にペリーを上陸させ、浦賀奉行の戸田氏栄と会見をさせる決定を下します。当時の将軍・徳川家慶は病に伏しており、ペリーの要求に対し、判断が下せるような状態にはありませんでした。

阿部はこれを理由として、返事を一年ほど引き伸ばし、時間の猶予を得ることにします。

ペリーもひとまずはここまでで十分だと思ったのか、幕府の要求を受け入れ、返答の延期を了承して会見を終えています。しかし、そのまますぐには引き下がらず、浦賀から北上して江戸湾に入り、幕閣や江戸の住民たちにも蒸気船の姿を見せつけています。

こうして、その気になれば江戸城に向かうことも容易であるし、これまでの相手のように、のらりくらりと開国要求をかわすことはできないぞ、という意志を示したのだと思われます。

阿部正弘は広く意見を集めるも、方針は定まらず

ペリーがいったん琉球へ戻って行った後、開国し、アメリカとの間に国交を結ぶかどうかの議論が行われます。

阿部正弘は、国全体に影響を及ぼす事態であっただけに、幕府の独断で決定するのは問題があると考え、身分に関わらず、自由に意見を幕府に伝えてもよい、という通達を出しました。

これによって、旗本などの幕臣だけでなく、諸大名や知識人、町人たちからも様々な意見が寄せられ、日本全体で参政意識が高まっていきました。

このことが幕府の権威をゆるがし、その衰退につながっていった、という見方もあるのですが、もはや鎖国を前提とした、旧態依然とした幕府の体制で対処できる事態ではない、という阿部の認識は、正しいものでした。

なお、この時に意見書を送った者の中には勝海舟もおり、当時は身分の低い幕臣でしたが、その見識が阿部の目に留まり、引き立てを受けていくことになります。

この時には開国するべきであるという意見と、鎖国を守って打ち払うべきであるとする、開国派と攘夷派、双方の意見が寄せられ、これといって方針をまとめることはできませんでした。

阿部正弘は首相格であるとは言っても、幕府の制度上、独断で大事を決定できるほどの権限はなく、調整役に終始するしかない、というのが実情でした。

幕府は同じ職に常に複数の人員を割り当て、交代でその役目を務めるように制度を構築しており、特定の個人が権力を持ち過ぎることがないように務めていました。この仕組みによって幕府の統治は安定していたのですが、このような重大な危機に見まわれた際に、思い切った決断や改革ができないという欠陥も抱えています。

一時的に、強引に独断でことを運ぶのは、不可能ではありませんでしたが、それを実行した政治家は、必ず数年で失脚するのが、幕府の体制の特徴です。これはひとりの人間に権力が集中する状況を嫌う、日本人の精神性が表れているのだとも言えます。

幕府の制度を構築した徳川家康は、それを見抜いていたからこそ、ひとつの職に複数の人間を割り当てる方針をとったのでした。

つまり、この時に幕府が無策だったのは、阿部正弘個人の能力の問題ではなく、幕府の権力構造の問題だったのだと言えます。

このことが、幕政の改革を求める勢力の出現につながっていきます。

品川に砲台が設けられる

ペリーに江戸湾の深くまで侵入されたことで、防衛上の問題点が浮かび上がり、品川沖に砲台が建設されることになりました。

阿部は西洋砲術を学んでいた韮山代官・江川英龍を登用してこれを実行させています。

この時に設置された大砲は、佐賀藩が製造した青銅製のカノン砲でした。佐賀藩は先のフェートン号事件以降、藩主・鍋島直正の主導によって、西洋技術の取り込みが積極的に行われており、このために急な事態にも対応できたのです。

砲台の建築は急速に進み、翌年のペリーの再来航の前に一部が完成します。そして品川沖までやってきたペリーの艦隊を、横浜に引き返させることに成功しました。

ペリーは交戦を禁止されていましたので、建設途上の砲台でも効果があったのでしょう。

こうして砲台が建築されたことで、その場所は品川台場と呼ばれるようになり、現在でも「お台場」としてその地名が残っています。

ペリーが再度来航し、条約が結ばれる

こうして幕府は対応を進めていきますが、ペリーは約束した1年後ではなく、半年後の1854年の2月13日に、再び浦賀に来航しました。

この間に将軍・家慶が病死し、対応の意見もまとまらず、幕府は混乱した状態にありました。ペリーはその隙をついて交渉を成立させようとしたのです。

ペリーは前回の4隻を上回る、9隻の艦船を率いてやって来ており、昨年を上回る大艦隊が姿を現したことに、幕府や江戸の住民たちは大きな衝撃を受けます。ペリーはその効果を狙って船を増やしたわけであり、将軍の死を利用するところといい、圧迫外交の手腕に長けていたことがわかります。

ペリーは表立っては友好的な態度に終始し、互いに招待をして食事ふるまうなど、社交の場が持たれました。この頃には、幕府に「アメリカは平和的な交渉を求めている」という情報がオランダ経由で知らされていましたので、来航の時期が早まっても、それほど慌てることはなかったようです。

一ヶ月ほど協議がもたれた後、3月31日に、ついに幕府はアメリカの開国要求を受け入れ、「日米和親条約」を締結しました。

これによって、200年以上続いてきた鎖国政策が終焉し、日本は当時の荒々しい国際社会に参加していくことになります。

ペリーが見越した通り、強大な軍事力を背景にして迫られ、江戸の近くで交渉をされると、幕府は開国要求を退けることはできませんでした。無碍にすることで、アメリカの態度が変わることを幕府が恐れた、という理由もあったでしょう。

その後は細則を定める交渉が続けられ、北海道の箱館と、伊豆半島の下田を開港することが決まります。

そしてアメリカの船舶に対し、食糧や水、石炭などの必要な物資を販売することも定められます。そして港の近くであれば、一時的に外国人の居留も認められることになりました。

この時点では、まだ通商を行うところにまでは至っておらず、アメリカ船が日本で補給を行うことを許可した、という程度の内容に留まっています。とは言え、日本の国策を大きく変化させたのは確かで、重要な条約であることに変わりはありません。

その後は順次、ロシアやイギリス、フランス、オランダとの間にも同様の条約が結ばれ、日本は多くの国と国交を持つようになります。

ペリーが日本の歴史に及ぼした影響

ペリーがこのようにして、幕府を武力で圧迫して開国をさせたことによって、日本の歴史の流れには、大きな変化が生じることになりました。

それまでは、幕府は日本における最強の存在であり、簡単にはゆるがせない盤石の政権だと思われていました。

しかし、ペリーが数隻の軍艦を率いて浦賀に姿を現し、江戸湾に深く入り込むなど傍若無人な振る舞いをしましたが、幕府はこれを咎めることも、制止することもできず、言いなりになって開国条約を結んだことで、その権威が大きく傷つけられています。

幕府がその政権の根拠としている征夷大将軍という地位は、本来は「朝廷に従わない夷を征する」という役割を果たすための官職です。

しかし当の「夷」であるペリーに弱腰な態度を見せたことで、徳川家は征夷大将軍の地位にふさわしくない、という意見も出てくるようになりました。

こうして、もはや幕府は西洋諸国が押し寄せてくる状況下において、朝廷から統治権を委任されるのには適さない存在なのではないか、という疑問が提示されるようになっていきます。そうなると、新しい状況に対応できる政体とはどのようなものなのか、という模索が開始されるようにもなりました。

この結果として、江戸時代には飾り物扱いをされていた朝廷が、政治の表舞台に浮上してくることになります。日本においては、政権の正当性を承認するのは朝廷であり、つまりは天皇であったからで、このために天皇からの支持を受けたものが次の世を制する、という状況になったのです。

天皇を政治機関として見ると、幕府のような実力者に統治の正当性を付与して政情を安定させる力が、まずあります。そして、時代を経るうちに、その統治機関が実力を失った場合、新たに立ち上がった、より現実に適した統治機関の正当性を承認し、変革を促進させる、という力も備えていました。

安定と変革という正反対の政治的な力を、有史以来ずっと存在し、それゆえに最大の権威を持つ天皇が所有し、行使する、という仕組みによって、日本では比較的穏健に権力の委譲が行われてきました。このようにして、時代状況の変化に対応できる構造を、日本は備えているのです。

ともあれ、ペリーその人は、あくまでアメリカのために日本を開国させようと考えただけなのですが、結果として、その行動は幕藩体制を大きく揺さぶり、そこから広がった波紋が、幕府の崩壊と明治政府の誕生、という事象をもたらすに至ります。

ペリーは日米和親条約の締結から4年後、1858年に63才で亡くなっていますので、自分の行動がどのような影響を日本にもたらしたのか、その結末を知ることはありませんでした。


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