穆皇后(呉莧) 人相見に称賛され、劉備の正室となった女性

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ぼく皇后は劉備の正室になった女性で、えん州の陳留郡の出身でした。

穆というのはおくりなで、姓名は呉莧ごかんといい、呉氏と呼ばれることもあります。

幼くして親を失い、兄の呉壱ごいつとともに孤児になりました。

父親が朝廷の高官である劉焉りゅうえんと旧知の仲だったので、劉焉が益州ぼく(長官)に就任すると、これに随従し、一家をあげて移住します。

このようにして呉莧と呉壱は、劉焉の世話になって育てられたようです。

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劉焉の三男と結婚する

劉焉は益州を支配するようになると、漢王朝が衰退していく時勢をかんがみて、自立し、やがては皇帝になりたいという野心を抱くようになります。

そして人相見が得意な者が、呉莧の容貌を見て、たいそう高貴な身分になるに違いない、と言っていたのを知りました。

すると劉焉は三男の劉ぼうをつれて呉莧の元を訪れ、息子の妻に迎えます。

呉莧が高い身分に昇るということは、その結婚相手の身分も高くなるということであり、自分の家の運を開くために、劉焉は両者を結婚させたのでした。

この時代には、人相見が大きな影響力を持っていたようで、類似の話はいくつもあります。

このため、有名な人相見に見いだされると、それによってその人の運命が代わってしまうこともあった、ということになります。

未亡人になる

その後、劉焉は馬騰ばとうとともに反乱を起こして失敗し、長男と次男を失いました。

さらには本拠地が災害に見まわれて大きな被害を受け、不幸が重なったことで、すっかりと気落ちます。

そして失意の中で病に倒れ、そのまま亡くなりました。

劉焉の臣下たちは、四男の劉しょうがおとなしいことに目をつけ、思うがままに益州を操るために、こちらを後継者にします。

その後、父や兄たちを失い、後継者になれなかった劉瑁は精神を病んで死去し、呉莧は未亡人となりました。

こうして結局、劉焉の野心に基づく結婚は、よい結果は招かなかったのでした。

劉備が益州の支配者となる

劉璋は惰弱な人物で、戦乱の中で益州を保っていけるだけの才覚は備えていませんでした。

このため、張松や法正といった臣下たちは、英傑として知られる劉備を主君にすることを望み、彼を益州に招きます。

そして劉備は劉璋から益州を奪い取り、これを平定しました。

群臣が穆皇后をめとるように勧める

この後で、劉備の正室だった孫夫人(孫権の妹)は呉に帰ったので、この地位が空白となります。

これを受け、群臣たちは呉莧をめとるようにと勧めたのですが、劉備は先の夫である、劉瑁と自分が同族であることを懸念しました。

すると法正が進み出て、「関係の近さを問題にされるのであれば、しんの文公や子圉しぎょと比べると、いかがでしょう?」と言います。

文公と子圉は、春秋時代の晋という国の公子で、兄弟でした。

そして同じ女性と結婚したのですが、それと比べれば、先祖がつながっているだけの劉備と劉瑁は関係がもっと遠いので、それほど問題にはならないでしょう、というのが、法正の言ったことでした。

劉備はこれを受け、呉莧と結婚します。

史家の批判

この時の劉備の判断を、習鑿齒しゅうさくしという史家が批判しています。

古代の中国の礼では、同族の者が同じ女性をめとってはいけない、ということになっていました。

文公が、兄弟がめとった女性(秦の公女)と結婚したのは、これによって秦から援助が受けられ、危機が切り抜けられるからで、やむを得ない事情がありました。

このために文公は、あえて礼を無視するふるまいをしたのですが、劉備はそのように差し迫った状況に置かれていないのに、前代の例を引き合いにして、呉莧と結婚をしたのは間違いだった、というのが習鑿齒の主張です。

当時の中国の人の感覚からすると、劉備がしたことは常識から外れていたようでした。

そこまでして結婚をしたのは、劉備と群臣もまた、呉莧の評判に影響を受けていたのでしょうか。

【次のページに続く▼】

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