徳川

戦国時代

榊原康政 徳川家康に仕えて文武に活躍し、四天王に数えられた名将

榊原さかきばら康政は徳川家康に仕えて活躍した武将です。 元は低い身分の生まれだったのですが、子供のころに才能を見込まれ、家康に抜擢されました。 その後は戦場だけでなく、政務や行政の方面でも活躍しており、多才な人物でした。 それゆえに重...
戦国時代

酒井忠次 四天王筆頭とされ、家康を支えた名臣の生涯

酒井忠次ただつぐは徳川家康の重臣で、その創業を支えた功臣です。 軍事と外交に長けており、家康にとって重要な戦いで、何度も大きな手柄を立てています。 その優れた働きぶりから、四天王の筆頭として後世からも高く評価されました。 この文章では...
戦国時代

於大の方(伝通院) 乱世に翻弄された家康の母

於大おだいの方は徳川家康の母親です。 家康を生んでまもなく離縁され、他の豪族と再婚させられるなど、政略に翻弄された生涯を送った女性です。 その他にも、実家が信長に滅亡させられたり、家族を殺害されるなど、様々な苦難を経験してもいます。 ...
戦国時代

三河一向一揆 家臣団が分裂した家康三大危機の一つ

三河の一向一揆いっこういっきは、徳川家康が三河を掌握しようとした過程で発生した、大規模な宗教組織による反乱です。 この際に家康の家臣団が分裂し、一揆側に加担する者が続出したため、家康は思わぬ苦戦をしいられました。 これは1563年から翌...
戦国時代

石川数正はなぜ徳川家康の元を出奔したのか

石川数正かずまさは徳川家康に仕え、家老となっていた人物です。 酒井忠次と並び、家臣団の筆頭とも言える立場にありましたが、やがて家康の元を出奔し、豊臣秀吉の家臣になっています。 数正は徳川氏の中枢にあり、家康が幼少のころより忠実に仕えてい...
織田

桶狭間の戦い 織田信長が5倍の兵力差を覆して今川義元に勝利できたワケ

織田信長は1560年、桶狭間《おけはざま》の戦いで今川義元《よしもと》を討ち取り、一躍天下に名を上げました。 信長の兵力は5千で、義元は2万5千であり、5倍もの差がありました。 この文章では、それにも関わらず、どうして信長が桶狭間で勝利...
戦国時代

北条氏政と氏直が、小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされたワケ

北条氏は戦国時代に5代、90年を費やして関東地方の大半を制し、覇者たる地位を手に入れました。 しかし制覇が完了間近になったところで、豊臣秀吉の討伐を受け、4ヶ月の戦いの後、あえなく滅亡しています。 秀吉と北条氏政《うじまさ》・氏直《うじ...
戦国時代

前田利常 あえて鼻毛を伸ばし、加賀百万石を保たんとす

前田利常としつねは、加賀百万石を築いた前田利家の四男として誕生した人物です。 前田家は兄の利長《としなが》が継いでいたのですが、利長は正室とも側室との間にも、男子を得ることができませんでした。 このために利常が年の離れた兄の養子となり、...
戦国時代

石田三成と柿の逸話

【石田三成の肖像画】 石田三成は1600年に、徳川家康と関ヶ原で決戦を行いました。 これは家康が豊臣家から天下の支配権を簒奪(さんだつ)しようとする動きを見せたため、三成が家康を打倒して豊臣家の政権を守ろうとしたことに起因しています...
戦国時代

北条氏との外交に見られる、徳川家康の忍耐強さについて

徳川家康は、強大な武田信玄に立ち向かえるほどの勇気を備えた武将でした。 このために「三方ヶ原(みかたがはら)」で信玄に挑戦して大敗し、あやうく戦死しかけたこともあるほどです。 しかし一方では、家康は非常に忍耐強い性格も備えており、なかな...