張嶷は蜀に仕えた将軍です。
勇敢で、かつ計略を立てるのが得意で、各地の反乱の討伐などで活躍しました。
そして蜀の統治が及ばなくなっていた越巂郡の回復に成功し、大きな功績を立てています。
その後は病をおして魏との戦いに参加し、敵軍に大きな損害を与えた後、戦死しました。
忠義に厚く、このために劉禅から深く崇敬され、三国志の著者・陳寿からは称賛を受けています。
この文章では、そんな張嶷について書いています。
【張嶷の塑像】
巴西に生まれる
張嶷は字を伯岐といい、益州の巴西郡、南充国の出身でした。
生年は不明となっています。
身よりがなく、貧しい家に生まれましたが、若い頃から気概と勇気を備えていました。
その影響でか、わずか二十才で郡の功曹(人事官)となり、早くから世に出ています。
山族の襲撃に対応して名をあげる
劉備が蜀を平定した際に、山賊が張嶷が住む県を襲撃してくる事件が発生しました。
すると県長は、家族を見捨てて逃亡してしまいます。
この時、張嶷は白刃をかいくぐり、県長の夫人を背負って救出する、勇敢な働きを見せました。
このことから世に名を知られるようになり、州は張嶷を召し出して従事(長官の側近)としました。
郡内には襲禄や姚伷といった、二千石の位にある名高い人物たちがいましたが、みな張嶷と親しく交わっていました。
賊を退治する
227年になると、丞相の諸葛亮が北伐の準備のため、漢中に駐屯するようになります。
すると広漢・緜竹の山賊である張慕らが、軍需物資を略奪し、官民をおどして連れ去る事件を起こしました。
張嶷はこの時、都尉の地位にあり、兵を率いて討伐を担当することになります。
しかし賊は鳥のようにすぐに飛び散ってしまうので、戦っても捕らえることは難しいと判断しました。
このため、偽って和睦をするふりをして、日を決めて宴会を催します。
その酒宴の最中に、張嶷は自ら側近を率い、張慕ら五十余人を討ち取りました。
こうして賊の首領たちは壊滅したので、後は残党を掃討し、十日ほどでこの反乱を鎮めています。
このように、張嶷は知略に長けていたのでした。
重病にかかり、何祇に助けられる
後に張嶷は重病にかかりましたが、家が貧しかったので、治療をすることができませんでした。
この頃、広漢太守の何祇が義に厚い人だとして評判になっていました。
張嶷は彼とは、長い間疎遠にしていたのですが、病をおして車に乗り、その家を訪ねます。
そして病気を治してくれるようにと頼み込んだところ、何祇は財産を傾けて治療にあたってくれたので、数年で回復することができました。
張嶷はこのように、信義の道に生きる者を友にしていましたが、彼の仲間はみなこのような種類の人たちでした。
汶山の反乱を討伐する
やがて張嶷は牙門将(大将軍直属の武将)に任命され、馬忠の配下として、反乱を起こした汶山郡の羌族を討伐しました。
この時に張嶷は三百の兵馬を預かっていましたが、また別にいくつかの軍営の兵を率い、羌族が住む他里という村へと進軍します。
この村は高く険しい場所にあり、張嶷が四、五里ほど登ってみると、羌族は石の門をかまえ、その上に床を張り、石を積み上げていました。
そして通過しようとする者があれば、石を投げ下ろして打ち砕く構えを作っています。
張嶷はこれを見て、正面から攻撃するのは不可能だと悟ります。
このため、羌族の言葉がわかる者を派遣して、降伏を促すことにしました。
「おまえたち汶山の諸族は反乱を起こし、良民に害をなしている。
天子は悪人を討ち滅ぼせと将軍に命じられた。
おまえたちがもしも服従の意を表し、わが軍を通過させ、兵糧を提供するのであれば、おまえたちが受ける幸福は増し、報いは百倍となって返るだろう。
もしも従わないのであれば、大軍が処罰し、雷が降り注ぐようにして、容赦なくおまえたちを滅ぼすことになる。
後から悔やんでも、取り返しはつかぬぞ」
するとこの村の頭領は恐れをなし、すぐに張嶷の元に出頭し、兵糧を提供し、通行を妨げませんでした。
残りの部族は他里が降伏したと知ると、みな怖れを抱き、どうしてよいかわからなくなりました。
ある者は軍を出迎えて降伏し、ある者は山や谷に逃げ隠れ、あるいは兵を動かして攻撃をしてきます。
このように対応がばらばらになったため、張嶷はたやすく勝利を得ることができました。
【次のページに続く▼】