張良 王佐の才をふるい、劉邦を皇帝にした名軍師の生涯について

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張良は劉邦に仕え、漢帝国の建国に貢献した人物です。

いわゆる軍師の役割を果たし、常に的確な戦略を立てて劉邦に助言を与え、その勢力の拡大に尽くしました。

元々は秦に滅ぼされた韓という国の遺臣で、このために秦の打倒を念願とし、始皇帝の暗殺を謀るなどしていました。

秦が滅び、項羽に勝利し、漢帝国が成立した後には小さな領地をもらって隠遁し、仙人になるための修行を積みながら、静かな余生を過ごしました。

この文章では、そんな張良の生涯について書いてみます。

【張良の肖像画】

祖国が攻め滅ぼされる

祖父も父も韓という小国の宰相(大臣)を務めており、張良は名門の家柄の出身でした。

しかし張良が生まれた頃には隣国の秦の勢力が増大し、韓を圧迫するようになっています。

やがて張良が20才になった頃、ついに韓は秦によって攻め滅ぼされてしまいました。

この時に張良は秦への復讐を誓い、家財を売り払って資金を作ります。

他の何よりもこの目的を優先するため、弟の葬式の費用すら惜しんだ、という逸話が残っています。

創海君から勇士を借り受ける

張良は秦への復讐のため、その首領である始皇帝の暗殺を志すようになります。

しかし相手は大陸の覇者であり、ひとりで暗殺を成功させるのは難しいため、同志を求めて張良は各地を旅しました。

やがて創海君という人物と知り合って意気投合し、彼に仕える屈強な肉体を持った勇士を借り受けます。

この創海君が何者なのかは不明ですが、「君」という号を用いていることから、おそらくは張良と同じく、秦に滅ぼされた国の貴族だったのではないかと思われます。

始皇帝を襲撃する

始皇帝は大陸を統一した後、各地を巡業して回っており、張良はこの道中で襲撃する計画を立てます。

しかしたった2人で斬り込んでも返り討ちにあうのがせいぜいなので、遠くから狙撃する手段を考案しました。

狙撃と言ってもまだ銃のない時代のことですので、重さ120斤(30kg)の鉄の塊を用意し、それに鎖をつけて遠くに投げられるようにしました。

始皇帝が予定の道を通りかかると、勇士は鎖を振り回して勢いをつけ、鉄塊を始皇帝が乗っているとおぼしき車に向かって投げつけます。

ハンマー投げの要領で飛んでいった鉄塊は、見事に車を打ち砕きますが、始皇帝が乗っていたのは隣の車で、襲撃は失敗に終わります。

このため、張良は勇士と別れてその場から逃げ出しました。

危うく暗殺されかかった始皇帝は激怒し、全国に手配して張良を捕まえようとします。

このために張良は偽名を使って下邳(かひ)という都市に潜伏し、この追求をやり過ごしました。

始皇帝を恨んでいた人間は多かったでしょうが、その暗殺の実行と、成功まであと一歩のところまで行ったのは張良だけで、この時点でも並の人物ではなかったことがうかがえます。

黄石公(おうせきこう)に兵法書を授けられる

張良は下邳での潜伏時代に、ある老人と知り合いました。

張良が橋のたもとを通りかかると、そこにいた老人が靴を橋の下に放り、張良に「取ってこい」と無造作に言ってきました。

潜伏中のことだったので、張良は波風を立てぬよう、言われた通りに靴を拾いに行きます。

すると老人は「履かせろ」と言って足を差し出してきたので、張良は言われるままに履かせました。

貴族の出であったことを考えると、なかなか屈辱的な行動だったかもしれませんが、張良はそれを受け入れられるだけの度量を持っていたようです。

このふるまいを見て、老人は「兵法を教えるから5日後にここに来なさい」と張良に告げました。

5日後に張良が半信半疑で橋に向かってみると、老人はすでに到着しており、「年上の人間よりも遅れて来るとは何事だ」と張良を責めます。

そしてまた5日後に会う約束をしますが、今度は張良は日の出前に出発し、老人よりも先に到着しようとしました。

しかし老人はまたしても張良より先に到着しており、再び5日後に会う約束をします。

今度こそは、と張良は前日から橋の側で待つと、ついに老人が後からやって来ました。

「ようやくわしよりも先に来ることができたか。そのような謙虚さを持つことが、学ぶ上で最も大事なことだ」と満足そうに張良に告げ、太公望が記した兵法書を授けます。

そして「これを読めばお前は王の師にもなれる。13年後にお前は黄色い石を見るだろう。それがわしだ」と言い残し、去っていきました。

【次のページに続く▼】