劉放は曹操、曹丕、曹叡に仕えた魏の重臣です。
皇帝に取り入るのがうまく、それによって大きな権力を握るに至りました。
そして曹叡が亡くなる際に、次の皇帝の補佐役に、曹爽と司馬懿を推薦したことによって、魏が滅亡に至るきっかけを作っています。
この文章では、そんな劉放について書いています。
涿郡に生まれる
劉放は字を子棄といい、幽州の涿郡の出身です。
漢の広陽順王の子・劉宏の子孫で、王族の一員でした。
特に関わりがあるわけではありませんが、涿郡の出身で、王族だったというのは、劉備と同じ経歴です。
劉放は郡の綱紀(重役)になってから、孝廉に推挙され、中央に出ています。
王松に身を寄せる
やがて董卓が台頭し、戦乱の世になると、劉放は幽州の漁陽に勢力を築いた王松に身を寄せました。
それから時が流れ、曹操が袁紹を打ち破って冀州で勝利すると、劉放は王松に進言します。
「以前、董卓が反乱を起こすと、各地で英雄たちが決起しました。そして勝手なふるまいをするようになり、それぞれが勢力を拡大しようと図ってきました。
その中で曹公(曹操)だけが危機を救い、天子(皇帝)を支え、天子のお言葉を受けて罪人たちを討伐し、戦えば必ず勝利を得ています。
強大な袁紹や袁術であっても、守勢になれば淮水で水のように消え、立ち向かえば官渡で大敗しました。そしていま、曹公は河北を討伐しようとしており、その武威は響き渡っており、大勢はすでに決しています。
こういった時には、早いうちに帰順した者は幸福を得られますが、後から服従すると、やがて滅亡することになります。ですので、一日が終わるのを待たずに、駆けつけた方がよいでしょう。
その昔、英布は南面を捨て、剣を杖にして漢に身を寄せました。これは興亡をわきまえ、正しい去就を選択したのだと言えます。将軍は曹公に一身を投じて命を預け、堅固な結びつきを作ろうとされるべきです」
すると王松は、この意見に賛同します。
曹操に招聘される
このころ、曹操は南皮にいた袁譚(袁紹の長男)を討伐していました。
そして文書を送り、王松を招き寄せようとします。
すると王松は雍奴・泉州・安次などの領地を曹操に譲り、服属することにしました。
劉放はこの時、曹操に王松からの返書を作成しましたが、その文章はとても流麗なものでした。
曹操はそれに感心しましたが、加えて劉放が曹操に従属するように進言したという話を聞き、劉放を招聘することにします。
二〇五年に、劉放は王松とともに都に向かいました。
曹操は劉放を迎えて喜びを表し、次のように言います。
「その昔、竇融に従っていた班彪には、竇融に漢に仕えるようにと勧めた功績があった。この結果、河西は漢の領地になった。なんとも似ていることよ」
そして劉放を参司空軍事としました。
劉放はやがて県令を歴任し、地方官として務めています。
孫資とともに地位が高まっていく
その後、曹操の権勢が増していくと、魏国が建てられ、曹操は魏王になりました。
すると劉放は、孫資とともに秘書令になります。
やがて曹丕が魏の皇帝に即位すると、劉放と孫資は尚書令の左右の丞(副官)となり、地位が高まりました。
曹丕は秘書を中書という名称に改めましたが、劉放を中書監に、孫資を中書令に任命し、それぞれに給事中の位階を与えました。
これは皇帝の側近として、政策の決定に関与する重要な地位です。
そして劉放は関内侯、孫資は関中候の爵位をも与えられました。
ついで、劉放は魏寿亭候から西郷候に、孫資は関内侯から楽陽亭候に爵位が上がり、曹丕から寵愛を受けていたことがうかがえます。
彼らは特別に能力が秀でていたわけではないのですが、権力者に気に入られるように立ち回るのが、得意だったのでした。
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