後藤又兵衛(基次) 黒田家に仕え、大坂の陣で散った豪傑の生涯について

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家康からの勧誘

1615年の5月には、徳川家康が再び15万の大軍を率いて大坂に襲来します。

大坂城の防御力を失った豊臣方は、これに対し、5万の兵を野外に出して戦うことになります。

そして決戦が始まる数日前、又兵衛の元に徳川家康からの使者が訪れます。

そして又兵衛に「播磨一国50万石を与えるから帰順するように」と誘いをかけました。

すでに死を覚悟していた又兵衛はこれを断りますが、天下人からそれだけの誘いを受けたことは、又兵衛にとって、一種の誇りと慰めになったかもしれません。

道明寺の戦い

野外決戦を行うにあたり、又兵衛は2800の兵を率い、大坂方の先鋒を務めることになります。

そして5月6日の未明に出陣し、国分村の周辺に到着します。

そこにはすでに徳川方の先鋒・水野勝成が率いる部隊が布陣しており、これと戦いになります。

ちなみに、この水野勝成はかつて黒田家に仕えていたことがあり、又兵衛とも旧知の仲でした。

水野勝成もまた、いくつかの武家を渡り歩いた歴戦の勇士で、又兵衛と似たような経歴を持っています。

その豪傑同士が、戦国時代の最後を飾る戦場で対決しました。

又兵衛はこの水野隊と果敢に戦い、抜け駆けをしてきた奥田忠次という武将を討ち取るなどして戦況を有利に進め、やがて撃破に成功します。

そして真田幸村や明石全登ら、後続部隊の到着を待ちますが、この日は霧が発生しており、進軍が容易ではない状況でした。

このため、友軍がなかなかやって来ず、その間に徳川方の伊達政宗・松平忠明といった諸将の軍に包囲され、10倍もの敵と単独で対峙する状況になってしまいます。

この時に又兵衛は撤退を選択せず、ここを死に場所と定め、戦い抜くことを決意します。

その最期

又兵衛はこの戦いに若い侍の参加を禁止しており、始めから決死の覚悟で臨んでいました。

又兵衛は国分村近くの小牧山に布陣し、次々と押し寄せる徳川方の軍勢を幾度にも渡り撃退しますが、多勢に無勢であり、やがて死傷者が増加し、戦線の維持が難しくなっていきます。

又兵衛は残兵をまとめると、山を降りて最後の突撃を敢行しますが、衆寡敵せず、やがて乱戦の中で討死にしました。

一説には、伊達軍の鉄砲隊に膝を撃ち抜かれて歩行不能となり、自害を図ったと言われています。

そして家臣の吉村武右衛門に命じて介錯をさせました。

その翌日の戦いで、大坂方は真田幸村らが徳川家康の本陣を突き崩すなどして最後の意地を見せますが、最終的には完敗し、大坂城は焼け落ちています。

そして豊臣家の当主・秀頼は自害して果て、豊臣家は滅亡しました。

後藤家のその後

こうして又兵衛は最後まで戦場で戦い抜き、武人としての生涯をまっとうしています。

又兵衛の首は介錯をした吉村武右衛門が、又兵衛の伯父が住職を務める伊予(愛媛)の長泉寺に運び、埋葬したとされています。

又兵衛の長男・基則は大坂の陣の後で父と同じく自害しましたが、その子は播磨に逃れました。

そして成長すると武士にはならずに帰農し、播磨・加西あたりの庄屋(村長)になったと伝えられています。

又兵衛は終わりゆくひとつの時代に殉じて戦死しましたが、その子孫は変化に適応し、後藤家を存続させたようです。