豊臣秀吉はまだ木下秀吉と名のっていた頃に、墨俣の地に短期間で城を築き、大いに名を上げたことがありました。
当時、秀吉は織田信長に仕えており、美濃(岐阜県)の攻略戦に参加しています。
秀吉は初め、信長の身辺の雑用係をしていましたが、この頃には各地の小領主の寝返り工作や、いくつかの城の攻略に成功しており、将校の身分にまで出世していました。
秀吉や信長の重臣・丹羽長秀の活躍によって、美濃の攻略はじわじわと進んで行き、東部と中央部は信長の勢力圏に組み込まれました。
そして残る西美濃を攻略するため、信長は墨俣の地に城を築き、そこを橋頭堡として美濃の完全制圧を果たすことを計画します。
しかし、墨俣は美濃の領主である斉藤龍興の勢力圏との狭間にあり、築城の際に妨害を受けることが予想されました。
この仕事を、信長の重臣である佐久間信盛や柴田勝家が担当しましたが、いずれも斉藤軍の攻撃を受けて失敗に終わっています。
信長が次なる担当者を求めていると、諸将が尻込みをする中で、秀吉が自ら名のりを上げ、この仕事を任されました。
蜂須賀小六と協力して築城に取りかかる
秀吉は功名にはやって闇雲に手を上げたわけではなく、きちんと成算を立てていました。
秀吉は信長に仕える以前には、尾張(愛知県)周辺を放浪し、様々な仕事についていた経験を持っています。
その時期に、美濃の野伏を束ねる蜂須賀小六の元にもいたことがあり、美濃で活動できる人脈を持っていたのです。
【蜂須賀小六の武者絵】
野伏とは傭兵のようなもので、戦いが発生するたびに、いずこかの陣営を訪れ、臨時で雇われて戦う者たちのことを言います。
それ以外にも、戦いが終わったら、戦場に遺棄されたり、死体が身につけている装備をはぎとって売り払う、といった稼ぎ方をしていました。
戦国時代ならではの、戦場の周辺で生き延びる男たちの集団だった、ということになります。
秀吉はそんな野伏たちを束ねる小六の元を訪れて旧交を温めつつ、自身の立てた計画を話しました。
その計画とは、あらかじめ城を作って建材を完成させ、それをばらして墨俣に運ぶ、というものでした。
現地で一から城を作ろうとするとかなりの時間がかかりますが、あらかじめ作っておいたものを組み直すのであれば、建設にかかる時間を大幅に短縮することができます。
そして秀吉は、成功の暁には多額の報酬が出ることと、小六や主だった者たちを織田家に仕官させると約束したことで、野伏たちの協力を取り付けました。
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