早雲の介入
戦死した義忠の妻・北川殿は早雲の姉であり、龍王丸は早雲の甥にあたります。
こうした関係があったため、姉と甥を助けるために早雲は駿河に下向し、龍王丸派の支援を行いました。
これは伊勢氏当主の貞親や、父・盛定の指示を受けてのことだとされています。
伊勢氏からすれば、血縁者である龍王丸が駿河守護になった方が都合がよく、早雲にその実現を託したことになります。
この時に早雲は、「和睦に反対するものは、扇谷上杉家から攻撃を受けることになる」と龍王丸派、小鹿範満派の双方に伝え、和解を促進させる空気を作り出しました。
しかしこれはでまかせであり、どちらも早雲に騙されたことになります。
早雲はそのまま両派の調停を進め、「龍王丸が成人するまでの間、小鹿範満が当主を代行する」という条件で和睦をとりまとめ、駿河で内乱が発生するのを防ぎました。
こうして早雲は初めての成功を手にし、今川氏に影響力を持つことになります。
この挿話から、早雲の謀略家としての才能の片鱗をうかがうことができます。
9代将軍・義尚の申次衆となる
長く続いた応仁の乱は、9代将軍の地位を義尚が継いだことによって、収束に向かっていきました。
そして世の中がある程度の落ち着きを取り戻した頃、1483年に、早雲は義尚の申次衆に任命されています。
申次衆とは、武士たちの将軍への拝謁の要望を取り次ぎ、関連する雑務を処理する役職でした。
優れた知略を備えた早雲からすれば、平凡すぎる退屈な役目だったかもしれませんが、これを4年ほど務めた後、奉公衆(将軍の軍事を担う役職)へと転じています。
こうして幕府の役人としての日々を過ごしつつ、早雲は大徳寺で禅を学ぶなどしており、比較的平穏な日々を過ごしていました。
後に早雲の重臣となる、大道寺太郎らとはこの時期に知り合ったと考えられ、一党を形成する準備も進めていたと思われます。
世情の変化
早雲が京都に滞在していた時期に、その近隣の山城国の南部(京都府南部)では、いつまでも争いをやめない守護大名の畠山氏を、住民たちが団結して追放する、という事件が発生します。
応仁の乱が終結した後も、畠山氏では後継者争いが収まらず、山城の南部で畠山義就(よしなり)と畠山政長が戦いを続けていました。
この軍費をまかなうために重税が課され、さらには戦いのために土地が荒らされ、国人衆(地元に根づいた小領主)や農民たちは疲弊していきました。
この結果、国人衆や農民たちが団結して一揆を形成し、畠山氏を排除して、自治を行うことを決定します。
(一揆(いっき)とは、共通した目的で団結した集団のことを指します)
これは「山城国一揆」と呼ばれています。
国人衆や農民たちが、実力で支配者であった守護大名を追放したわけですので、時代の変化を告げる、画期的な出来事であったと言えます。
どうして守護大名の追放に成功したのか?
この頃には鉄の大量生産が可能となり、価格が大幅に下がって普及した結果、農民たちでも、ある程度の武装をすることが可能になっていました。
そして耕作がしやすい鉄製の農具が当たり前に使われるようになったことで、農業生産力が向上し、村落の人口も大幅に増加しています。
この結果、農民たちも軍事力を備え、戦闘を行うことが可能になっていたのです。
これを国人衆や村落の代表者が束ねることによって一個の勢力となし、専門の軍人集団である守護大名の軍勢とも拮抗することが可能になりました。
こうした時代状況の変化によって、武士と農民の境界があいまいになって来ていたのです。
これ以後、毛利氏や長曾我部氏のように、国人衆の中から守護大名を実力で凌駕し、戦国大名として割拠する者たちが登場してくることになります。
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