徳川家康 将軍となって江戸幕府を開いた男の生涯

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東照大権現

家康は遺言で、死後には日光に小さな堂を建てて勧請するようにと言い残しますが、幕府は家康をもっと荘厳に祀り上げることにしました。

家康と親しく、信頼されていた藤堂高虎が奉行になり、日光に大規模な社殿が設られます。

そして1617年には、朝廷から「東照大権現」の神号が贈られました。

こうして家康は死後に神格化され、幕府の権威の象徴として君臨し続けることになります。

幕府は幕閣と呼ばれる譜代大名たちの合議によって運営され、時代をへるごとにその支配体制は盤石となっていきました。

やがてペリーの来航と列強の脅威によってその統治は乱れていき、明治維新によって終焉しますが、それまで264年の長きに渡って、日本では平和な時代が続くことになります。

家康への後世からの評価

これまで見てきたとおり、家康の生涯は人質という弱い立場から始まり、最後は大御所となって天下を制するほどになりました。

農民の出身だった秀吉ほどではないものの、一代で成し遂げた出世としては、破格のものだったと言えます。

信長や秀吉といった俊才たちに遅れはとりましたが、幾度もの危機を乗り越えて栄冠を掴んだ様は、世に顕彰されてしかるべきものでしょう。

しかし、秀吉死後に強引に徳川政権の樹立を図ったため、後世からの印象が悪いものになってしまっているのも事実です。

きれいごとだけでは権力は握れませんが、家康の場合はその陰謀がやや稚拙で見え透いたものだったので、行いが汚く見えてしまった面があるでしょう。

これは逆に見れば、家康は悪事に慣れていなかったからこそ、そうなってしまったのだとも言えるのですが。

歴史上の巨人には何かと毀誉褒貶がつきものであり、見る人によって評価が別れてこそ偉人なのだとも言えます。

日本の歴史への影響

家康が日本の歴史に与えた影響は大きく、それまで140年も戦乱が続いていた日本の統治を安定させ、戦国時代の終焉を成し遂げました。

そして江戸に幕府を開いたことで、それまではただの田舎であるにすぎなかった関東地方に大きな発展をもたらしています。

日本における東と西の不均衡を、家康が是正したのだと見ることもできるでしょう。

日本の政治の歴史全体から見ても、家康ほど優れた人物は滅多におらず、一代で新たな安定した秩序を作り上げてしまった偉人であることに変わりはありません。

武将としては優れた人物である、というくらいの評価にとどまると思いますが、政治家としては傑出した人物だと言えます。

単に権力を握っただけでなく、その体制の安定のための仕組みを構築し、後継者や補佐役も育成しておくなど、万事に手抜かりがありませんでした。

日本の政治家には家康ほど周到な人はなかなかおらず、そういった意味においては一種の奇人であったとも言えるかもしれません。