今川義元は桶狭間の戦いにで織田信長に討たれ、その躍進のきっかけを作った人物として知られています。
言わば信長の引き立て役となってしまったわけですが、それまでは「海道一の弓取り」と呼ばれ、大きな勢力を築くことに成功した、優れた武将であると見なされていました。
この文章では、そんな今川義元の生涯について書いてみます。
【江戸時代に描かれた義元の武者絵】
誕生後、仏門へ
今川氏は将軍家である足利氏の分家にあたる家柄で、代々駿河(静岡県東部)の守護職を務めていました。
正確に言うと足利氏の分家に吉良氏があり、今川氏はさらにその分家である、という関係になっています。
室町幕府を開いた足利尊氏の時代に戦場で活躍し、各地の守護に任じられるなどして勢力を築きました。
こうした守護大名たちは、戦乱が続くにつれその多くが没落していきましたが、今川氏は戦国大名としての統治体制を整えるなど時代の変化に対応することで、東海道で大きな勢力を保つことに成功しています。
義元はそんな今川氏の当主・氏親の五男として1519年に誕生しました。
兄の氏輝が継ぐことが決まっていたため、義元は幼いころに仏門に出されます。
そして教育係である太原雪斎とともに京都に上るなどして学問に励みました。
この頃の義元は、自分がいずれ今川氏を継いで、戦いの中に身を投じることになるとは、まるで想像していなかったでしょう。
家督相続
しかし義元が17才の時、突然の兄の死によって今川氏の継承権が巡ってきました。
もうひとりの兄も同じ日に死亡しているため、何か大きな事件が発生した可能性が高いのですが、このあたりの詳細は伝わっていません。
この事態に、義元は五男でありながらも正室・寿桂尼の子であったことから家臣たちに推戴され、還俗して今川氏の当主になります。
義元の異母兄である玄広恵探(げんこう えたん)も候補者でしたが、こちらは正室から生まれた子ではなかったために推されなかったようです。
(正室から生まれた子の方が身分が高くなり、より優位な継承権を持ち、側室から生まれた子は身分が低くなり、継承権が劣ります)
しかしこの継承は有力家臣である福島(くしま)氏が反対したことによってすんなりとは成立せず、今川氏の家中を割った争いに発展します。
花倉の乱
この争いは、福島氏の拠点の名前を取って「花倉(はなくら)の乱」と呼ばれています。
福島氏は玄広恵探を当主に据えるように主張し、今川氏の中に党派を作ります。
玄広恵探は福島氏の血を継いでいたので、この機に当主の地位につけ、自分たちの勢力を拡大することを狙っていたのです。
そして花倉城から義元の陣営に攻撃をしかけますが、太原雪斎や岡部元信らの活躍によって撃退されます。
そのうえ義元は伊豆や相模(神奈川県)に勢力を持つ北条氏綱の支援を取り付けることにも成功します。
こうして福島氏の陣営は追い詰められ、花倉城を攻め落とされて玄広恵探が自害し、滅亡しました。
こうして後継者争いに勝利した義元は、名実ともに今川氏の家督相続を果たしています。
【次のページに続く▼】