孫娘の福を引き取る
ところで、光秀が秀吉に討たれた際に、一鉄が憎んだ斎藤利三もまた捕縛され、処刑されています。
この利三には、福という娘がいました。
利三が反逆者の一味として討たれた後、子どもたちは諸国を流浪することになります。
しかし福は一鉄が引き取り、美濃の清水城に住まわせて生活の面倒を見ています。
この福が後に三代将軍・徳川家光の乳母となり、大奥で権勢を振るうことになる春日局です。
つまり一鉄は、春日局の母方の祖父なのでした。
利三には憎しみを持っていたものの、孫娘にまではその感情は及ばなかったのでしょう。
このようにして一鉄は歴史の重要人物との間に、様々な接点を持っています。
【孫娘・春日局】
秀吉に従う
その後、信長の遺領の分割を話し合う清洲会議において、美濃は信長の三男・信孝が支配することになりました。
しかし一鉄は信孝に従わず、美濃で抗争を繰り広げました。
美濃は織田氏のものにあらず、というのが一鉄の考えだったのでしょう。
そして信孝への対抗上、信孝と敵対する秀吉に従うようになります。
この結果、秀吉と柴田勝家が争った「賤ヶ岳の戦い」にも、秀吉に味方して参戦し、柴田方の城を攻めて戦功を立てました。
こうした働きの結果、秀吉から領地を安堵され、稲葉氏は混乱期を切り抜け、家名の存続を果たしています。
【6番目の主君・豊臣秀吉】
最後の戦陣
1584年になると、一鉄は既に69才になっていましたが、秀吉と徳川家康が争った「小牧・長久手の戦い」にも出陣しています。
この時に長久手で、秀吉の派遣した2万の別働隊が家康によって撃破されるのですが、負けを取り戻そうとして、秀吉は10万の大軍を率いて出陣しました。
秀吉は「どこまでも家康を追跡し、追い詰めてくれよう」と息巻いていましたが、一鉄は秀吉を強く諫めました。
「既に日が暮れようとしている中で、軍を進めれば思わぬ大敗を招くことがあります。明日を待って、それから勝負を決するべきです」と進言すると、「申の刻(午後3〜5時)を過ぎてから敵城を攻めないのは、古来からの軍法である。稲葉はさすがの老武者だ。諫言は理にかなっている」と人々が褒め称えたため、秀吉はそれ以上の進軍を取りやめました。
するとやがて、別働隊を率いていた池田恒興や森長可が戦死した、という報告が届き、諸将の戦意が大きく低下します。
そのような状況下で、一鉄は「わしは年老いた。もし戦って死せずとも、先は長くないだろう。それならばここで死ぬ覚悟で戦ってくれよう。そして死を恐れずに奮戦すれば、必ず勝つであろう」と述べて将兵の士気を高め、陣形を整えて敵を待ち受けました。
結局は家康が本営に引き上げてしまったために、戦いにはならなかったのですが、一鉄は老いてなお盛んな姿を見せています。
これが最後の戦陣となり、以後は秀吉の話相手になったりしながら、老後を過ごしました。
その死
1585年に秀吉が関白の地位につくと、一鉄は「法印」という最上位の僧の称号を与えられ、「三位法印」と称するようになります。
このことからして、秀吉に好意を持たれていたのでしょう。
そして1588年になると、73才で死去しています。
家督は子の貞通に継承されました。
そして後に豊後(大分県)に移封され、臼杵5万石の藩主として、明治維新を迎える時まで存続しています。
美濃から切り離されたのは、一鉄の執念を見て、遠ざけておくべきだと判断されたからなのかもしれません。