黒田官兵衛はどうして関が原の戦いにおける長政の活躍を苦々しく思ったのか?

スポンサーリンク

官兵衛の天下取り

関ヶ原の戦いで長政が活躍していた頃、官兵衛は黒田家の領地である豊前の中津城にいました。

主力部隊は上杉討伐から転じての東軍参加のために従軍していますので、200人程度の少数の部隊と共に留守番をしていたのです。

しかし官兵衛はおとなしく領地や城を守っているつもりはなく、この機に秀吉に警戒されたほどの才能を発揮します。

秀吉という天蓋がなくなり戦乱が訪れたことで、自分が活躍する舞台が作られたのだ、と晴れやかな気持ちで官兵衛は思ったかもしれません。

官兵衛は生涯の大半を人に仕え、その対象の勢力の維持や拡大に貢献してきましたが、この54才を迎えた時期になってはじめて、自分の意志と判断だけで行動できる自由を得たのです。

この時に官兵衛が本気で天下を狙っていたかはわかりませんが、戦乱がもつれにもつれればあるいは、とは考えていたでしょう。

官兵衛は基本的に欲の薄い人であり、何がなんでも天下を得なければならぬ、というほどの気負いはなかったと思います。

今の状況であれば、やろうと思えば九州は取れてしまう。

ならばやらいでか、というくらいの気構えはあったかもしれません。

まずは九州を抑えて、後は状況を見ながらできるだけ勢力を拡大していけばいい。

官兵衛は現実的に物事を考える人ですので、そのように段取りを考えていたと思います。

北九州の占領

官兵衛はたった200人ほどの元手ではじめ、わずか2ヶ月ほどで九州の大半を占領してしまいました。

まるで魔法のような現象ですが、そのたねは官兵衛が蓄えてきた多額の資金にありました。

官兵衛はまず資金を投じ、農民や牢人(主君を失った武士)などで構成されたにわか仕立ての軍隊をこしらえます。

全九州に募集をかけると2ヶ月ほどで9000人の部隊ができあがり、この戦力をもってがら空きとなっている北九州の諸城に攻めかかります。

黒田家と同じく、大半の大名の主力部隊は関ヶ原の戦いに参加するべく出払っていました。

なので寄せ集めのにわか軍隊でも、官兵衛の優れた指揮とあいまって、九州で猛威をふるいます。

官兵衛はまず豊前・豊後の大半をわずか10日ほどで占拠してしまうというすさまじい手腕を見せました。

毛利家の支援を受けて豊後に侵攻してきた大友義統に対しても、当初は苦戦するものの、やがて討ち破って軍門に下します。

家康の勝利の知らせ

そうした戦勝によって軍勢は1万3000にまで膨れ上がり、さらに勢力の拡大を図ったところで、関が原の戦いがわずか1日で終結したという情報が寄せられます。

おそらくこの瞬間に、あきらめのよい官兵衛は「もしかしたら天下を取れるかも」という夢を捨て去ったことでしょう。

主力決戦が終わったことを知った官兵衛は家康に領地切り取り次第の約束を取り付け、九州の残敵掃討にその軍を用いました。

ここまで来たらやりかけた仕事は最後までしあげてしまおう、と思っていたのかもしれません。

この後は鍋島や加藤といった九州における東軍側の大名と合流し、西軍についた大名の城を次々と攻め落とし、九州の大半を占領することに成功します。

官兵衛の名声は九州でも広く知れ渡っていたようで、もしも攻め手に黒田官兵衛がいたら、抵抗せずに降伏せよと留守番部隊に言い残してあった大名家も複数あったようです。

九州占領の事業も後はいよいよ薩摩・大隅(鹿児島県)の島津を残すのみ、となったところで家康から島津との講和がなった旨が伝えられ、官兵衛は軍を解散します。

官兵衛がその才腕を十全に、自由に発揮できたのはこの年の9月から11月まで、おおよそ2ヶ月ほどの期間でした。

【次のページに続く▼】