韓信 劉邦に天下を取らせた国士無双の大将軍

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斉王となり、項羽の勧誘を受ける

こうして斉を完全に制圧した韓信は、支配者が変わって不安定になった情勢を鎮めるため、仮の王になりたいと劉邦に申し入れます。

項羽と直接対決を続けて疲弊していた劉邦は、韓信の要求に激怒しかけますが、軍師の張良になだめられ、韓信の申し出を受け入れます。

張良はここではねつけると、名声と大きな軍事力を得た韓信が独立してしまう危険性があると、劉邦に進言したのです。

劉邦はこれを受けて韓信に「仮の王などと言わず真の王となれ」と告げ、韓信は大将軍から斉王へとその地位を進めます。

この時の韓信はまだ27才で、若くして異例の大出世を遂げたことになります。

そしてその韓信の元に、今度は項羽から和睦の使者が送られてきました。

項羽もまた、かつては歯牙にもかけていなかった韓信が、もはや無視できない存在になっていると認識したことになります。

武渉ぶしょうという使者がやってきて、「劉邦は項羽に見逃されても裏切って攻めこむような、信頼のできない人物なので、従わないほうがよいでしょう。漢から離脱して、楚と共に戦いましょう」と韓信に勧めます。

これはかつて劉邦が項羽の怒りをかって殺害されそうになった時、配下のとりなしによって見逃されたことを指しています。

にも関わらず劉邦は項羽に反乱を起こしたので、信頼できる人物ではないという指摘でした。

武渉はそのように説得しますが、韓信は項羽に仕えていた時代に取り立ててもらえなかったことを恨んでおり、大将軍、そして斉王に取り立ててくれた劉邦に恩義を感じていたため、これを拒絶します。

その後、さらに弁士の蒯通から「独立して漢(劉邦)・楚(項羽)・斉(韓信)の三国で天下を三分し、漢・楚の両者が争って疲れたところを討ち破って、天下を得るべきです」と、まるで三国志の諸葛亮のごとき進言を受けますが、韓信はこれも拒絶し、劉邦に従う道を選びます。

この進言によって劉邦に憎まれることを恐れた蒯通は、韓信の元を出奔します。

しかしこの時の決断が、後に韓信の身に不幸を招くことになります。

劉邦にとっては幸いなことでしたが、こちらは張良の進言を受け入れて韓信に斉王の地位を与えたことが、その幸運をもたらしたことになります。

このように、劉邦は人の有益な助言を素直に受け入れるたちであり、それが彼が王者に押し立てられた主な要因でした。

項羽の死

韓信が斉王となった頃、劉邦と項羽の戦いは最終局面を迎えていました。

両者は共に疲弊しており、和睦して天下を二分することで、いったん戦いを終結させることにします。

しかし劉邦はこの約束を破り、退却しようとする項羽を追撃しました。

このあたりの動きを見るに、項羽の使者・武渉が言っていた「劉邦は信用できない人物だ」という評は、間違いだとも言えないでしょう。

劉邦はこの時、韓信や彭越ほうえつといった配下の将軍たちに参戦を促しましたが、戦後の報奨を約束しなかったため、彼らはいずれも戦場にやってきませんでした。

このため項羽を討ち取り損ねた劉邦は怒りますが、またも張良になだめられます。

「劉邦はすでに天下の半分を得ており、十分な成功を収めている。にも関わらず戦後の報奨を約束しないのは、劉邦が物惜しみをしているのだ、と諸侯は見ています」と張良は韓信たちの気持ちを説明します。

劉邦からすれば「項羽を倒せるかどうかもわからないうちに、大きな報奨の約束などできない」と考えていたのですが、配下の立場からみるとそれは違っていたわけです。

この進言を受け入れた劉邦は、韓信に領土の追加と、戦後も斉王の地位を維持することを保証し、参戦を再度促します。

今度は韓信も、その他の将軍たちも劉邦の元に集結し、数十万にも及ぶ圧倒的な大軍をもって、ついに項羽を垓下がいかの地に追い詰めます。

ここで戦力の大半を失った項羽は撤退しますが、やがて烏江うこうのほとりで自決し、天下は劉邦のもとに統一されました。

軍事的には韓信の功績が最も大きく、戦後に大きな報奨を受けることになります。

しかし項羽という最大の敵がいなくなったいま、劉邦の政権にとって、最も脅威となりうるのが韓信の存在なのでした。

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