曹操はどうして官渡の戦いで袁紹に勝利できたのか?

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烏巣の襲撃

許攸は曹操に面会すると、袁紹軍の食料の大半が烏巣にあることを教え、そこを強襲して食料を焼き払えば、この戦いに勝利できると告げました。

曹操軍の幹部たちは許攸のもたらした情報を信用しませんでしたが、荀攸はこれが決定的な勝機であることをすぐに理解し、許攸の策を用いるべきだと曹操に進言しました。

これを受けて曹操はただちに決断し、自ら5千の兵を率いて烏巣に向けて進軍を開始します。

そして守備についていた淳于瓊の部隊を強襲し、激しい戦いが展開されました。

袁紹が対応を誤る

烏巣が襲撃されていることが袁紹の本陣にも伝わり、すぐに対応が協議されます。

この時に郭図は「曹操が不在の隙をつき、本陣を襲撃して撃破すれば、曹操は引き返さざるを得なくなって撤退するでしょうから、烏巣に援軍を送る必要はありません」と意見を述べました。

これに対し、将軍の張郃(ちょうこう)は「曹操軍の本陣は守りが固く、容易に討ち破ることはできません。それよりも淳于瓊への救援に全力を差し向けるべきです」と主張しました。

これを受け、袁紹は両者の意見をともに採用する、という中途半端な措置を取ってしまいました。

その上、本陣の攻撃に反対した張郃を、その担当者に任命するという誤りを犯します。

烏巣には軽騎兵を向かわせ、本陣の攻撃に重歩兵を用いるという決定を下したため、どちらの作戦にも不足な兵力を向かわせることになる、という状況を作り出すことにもなりました。

烏巣の部隊が壊滅する

袁紹がたいした援軍を送らなかったことが災いし、烏巣の守備隊は壊滅の憂き目にあいました。

淳于瓊は曹操軍の楽進に討ち取られ、その配下の部将たちもことごとく戦死しています。

曹操本人が率いる軍に対抗するには、軽騎兵の支援だけでは不足だったようです。

こうして烏巣を占拠した曹操は備蓄されていた食料を焼き払い、袁紹軍の継戦能力を失わせます。

張郃が曹操軍に降伏する

張郃は曹操軍の本陣を攻めましたが、自身が予想した通りにその守りは固く、守将の曹洪が巧みに指揮を取ったこともあり、撃退されてしまいました。

自分が反対した役目を押し付けられ、そのうえ烏巣が陥落したという情報も伝わってきたことで、張郃は袁紹を見限り、曹操軍に降伏しました。

この時に袁紹の陣営では、責任を取らされることを恐れた郭図が張郃らを貶める発言をしており、そういった状況も伝わっていたと思われます。

こうして烏巣をめぐる攻防が行われたその日に、袁紹は食料も優れた将軍をも失い、これ以上戦いを続けることが不可能となりました。

袁紹の敗走と、沮授と田豊の死

袁紹はやむなく敗北を認めて本拠の冀州へと撤退し、官渡の戦いは曹操の勝利に終わりました。

この時に沮授は黄河を渡るのが遅れ、曹操軍に捕縛されてしまいます。

曹操は沮授と旧知の中であり、その優れた能力を買って自軍に降るようにと勧誘しますが、沮授はこれを拒絶します。

このために捕虜にされますが、沮授はその後で脱走を図ったため、曹操軍の兵士によって殺害されてしまいました。

また、袁紹は田豊の作戦を採用せずに敗れたことで、帰還後に彼から嘲笑を受けることになるだろうと予測し、先手を打って処刑してしまいます。

これは田豊と仲が悪かった逢紀のそそのかしを受けての措置だとも言われています。

この結果、袁紹は敗北後の立て直しに必要な二人の優れた人材を失ってしまい、その勢力の衰退が決定づけられます。

沮授も田豊も、ともに能力も忠誠心も高い人物でしたが、この不幸な最期は、仕える主君を誤ったことの結果だと言えるでしょう。

曹操は後に「もしも袁紹が田豊の策を用いていれば、私と袁紹の立場は逆になっていただろう」と田豊のことを高く評価する言葉を残しています。

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