倉亭の戦いと、袁紹の死
こうして官渡の戦いは曹操の勝利に終わりましたが、これは袁紹の進撃を食い止めた戦いでしたので、この一戦だけで曹操の勢力が伸びたわけではありません。
翌201年には曹操は戦果を拡大するために黄河のほとりに軍を進め、倉亭(そうてい)という土地に陣を構えていた袁紹の軍勢を討ち破っています。
この二度目の敗戦の影響によって、袁紹の領地では反乱が相次ぐようになり、対応に追われることになります。
反乱の鎮圧には成功したものの、袁紹は見下していた曹操に完敗したことで気が塞がったのか、重病にかかり、やがて吐血して202年には死去してしまいました。
曹操は袁紹が生きている間は警戒して河北に侵攻しておらず、両者の争いは曹操の優勢勝ち、といった形勢で終焉を迎えることになりました。
劉備の逃亡
倉亭の戦いの後、豫州に駐屯していた劉備は、曹操が本格的に攻撃をしかけてくる、という情報を聞きつけます。
この頃にはもう袁紹の勢力が傾いていたため、これに対抗することは難しいと判断し、荊州の劉表を頼って落ち延びました。
これ以後、劉備はしばらく劉表の客将として時を過ごしますが、その間に諸葛亮と出会って「天下三分の計」を披露され、新たな戦略を得て再び曹操と戦うことになります。
ともあれ、劉備の逃走によって曹操は豫州の奪還に成功し、その勢力をゆるぎないものとして固めていきました。
袁家の終焉
袁紹の死後も袁家の勢力はまだ大きく、決して侮れないものがありました。
しかし袁紹の死後、長男の袁譚(えんたん)と三男の袁尚(えんしょう)が後継者争いを始めてしまい、このために勢力が分裂します。
これは袁譚を郭図が推戴したものの、郭図と不仲の審配と逢紀が袁尚を推戴する動きを取ったためでした。
家臣たちの争いが袁紹の死後にも続き、袁家に災いをもたらしたことになります。
この時に郭図が袁譚に袁尚を先制攻撃するようにそそのかしたため、兄弟の争いは取り返しがつかないほどに深刻なものになってしまいました。
曹操はこの争いを利用し、まず袁譚と同盟を結んで袁尚を討ち破り、その後で袁譚も撃破し、袁家を滅亡させました。
こうして曹操は袁紹の領地を併合して8州の主となり、並ぶ者のいない大勢力を構築することに成功します。
後漢はこの時、各地域の人口規模に準じて19州に分けられていましたので、およそ4割以上の人口を抑えたことになります。
郭図の処刑と、袁紹と曹操の差
袁譚が滅ぼされた際に郭図も処刑されましたが、この時に妻子も一緒に処刑されるという、厳しい措置を受けています。
郭図は「後漢書」の中でも袁家を滅ぼした悪臣として名指しで批判されており、袁紹の同盟者であった劉表からも非難を受けています。
これまで見てきたとおり、郭図は沮授の権限を奪い、袁紹に取り入って自身の出世を図り、あげくに策を誤って官渡の戦いを敗北に導くなど、利己的かつ無能なふるまいが目立った人物であると言えます。
沮授や田豊を用いず、こうした人間を重用してしまったところに、袁紹の敗北と滅亡の主因があったと言えるでしょう。
荀彧や荀攸を信頼してその進言や策を用い、不利を覆して勝利を得た曹操とは、まことに対照的であったと言えます。
袁紹と曹操の陣営には実力差はさほどなく、人材の用い方において差がついた、と見るのが妥当なところであろうと思われます。
【有利な情勢を作りながらも敗れた袁紹の肖像画】
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