加藤清正 熊本城を築いた「清正公さん」の生涯について

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交易によって資金を確保する

清正は単に農業政策に長けていただけでなく、それらを効率よく換金するための知識も備えていました。

各地の相場を調べ、高く売れる地域まで運んで売買し、利ざやを稼いでいたようです。

遠くルソンとも取引をしようとしていた記録も残っており、海外交易を行うだけの広い視野も備えていました。

このあたりは代官をしていた時代に得た知識が役に立ったのでしょう。

こうして稼いだ資金を投入して領国を発展させていきますが、秀吉から命じられた「唐入り」への参加が、やがて清正を苦しめることになります。

唐入りへの参加

秀吉は日本の統一後に、海外進出を果たして大規模な帝国を築くことを目指すようになっていました。

そして肥後に配置した小西行長に先鋒を、清正に次鋒の役割を与えています。

さらに秀吉は肥前(佐賀県)に名護屋城という、唐入りのための作戦拠点を築きますが、九州の諸侯にこの建築の役割が課せられており、軍事費と合わせ、費用の負担が重くのしかかることになります。

1592年に朝鮮半島への出兵が実施され、清正は黒田氏や鍋島氏の戦力も合わせ、1万の軍勢を率いて釜山に上陸します。

序盤は豊富な火縄銃の力によって、火力が貧弱な朝鮮軍を圧倒し、開戦から1ヶ月ほどで朝鮮の首都・漢城まで占拠してしまいます。

この頃に清正と行長は、京城という朝鮮側の拠点への一番乗りを競っていましたが、行長の方が一日早く成し遂げており、こちらも優れた軍事手腕を備えていたようです。

漢城の攻略後は、それぞれに別の進路を取るようになり、清正は朝鮮半島の北東部に進軍していきました。

そして咸鏡道を平定し、朝鮮の二人の王子を捕虜にするという手柄を立てています。

清正はそれまでに150人程度の兵しか率いたことはなかったのですが、この成功によって、1万の軍勢の指揮官にもなれる能力を備えていることを証明しました。

戦線の停滞と三成との不和

この時の戦略目的は、朝鮮の先にある明に侵入することであったため、清正はすばやい進軍を心がけていました。

しかし他の軍団が朝鮮の各地の占領のために時間をかけている間に、明軍が介入を始め、戦況は膠着していきます。

清正は他の軍団の苦戦を尻目に、朝鮮を踏破して遠く満州のオランカイにまで進出しますが、そのあたりは物資が乏しく、明への進入路としては不適格だったので、間もなく朝鮮に戻っています。

清正の軍団は、このように各地を軽快に進軍していきましたが、他の軍団が苦戦しているのに、清正の軍勢だけが快調なのは不自然であると見る向きもありました。

やがてこのことが、国内に残って秀吉への取次をしていた石田三成に疑いを抱かせます。

そして虚偽報告の疑いがかけられますが、清正はこれに憤り、三成との関係が悪化していきました。

朝鮮への出兵までは、秀吉子飼いの家臣たちの関係に特に問題はなかったのですが、この頃から清正らの武断派と、三成らの文治派との間に抗争が発生するようになります。

和平交渉と国内への召喚

明からの援軍や、朝鮮の義勇兵の活動によって日本軍の足は止まり、戦況が泥沼化していきました。

そんな中で清正らは朝鮮半島の南部を確保するため、晋州城の攻略に取りかかります。

この時に清正は亀甲車という攻城兵器を用いて攻撃を行い、配下の飯田直景らが一番乗りを果たす手柄を立てました。

一方で本格的な和平交渉も始まり、これに清正も関与します。

この時に秀吉から提示された条件は、明の皇帝の娘を天皇の妃として差し出すように、といった強気な内容のものが多く、とうてい相手が受け入れる可能性はありませんでした。

清正は秀吉の命令を忠実に実行しようとしますが、このままでは和平が成り立たないと判断した小西行長と対立します。

行長は、清正が朝鮮で勝手に豊臣姓を名のって交渉を行ったことや、現地での独断専行について糾弾し、秀吉に報告します。

これを三成も支持して秀吉に取り次いだことから、清正は秀吉の叱責を受けて国内に召喚され、京都で謹慎させられています。

この時に奉行衆の増田長盛が、三成との間を取り持とうとしましたが、清正は拒絶しています。

こうして清正と三成との不仲はさらに深まっていき、以後和解することはありませんでした。

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