関ヶ原の戦い
1600年の2月になると清正は大坂に出向き、家康との仲介役になっていた有馬則頼と面会しています。
そしてその後で家康にも会っていますが、許されませんでした。
やがてこの年には、家康の主導により、北陸の大大名・上杉景勝の討伐が行われることになりましたが、清正は参加を許されず、肥後にとどまっています。
これが清正が関ヶ原の戦いの本戦に参加できず、九州で戦う結果を招くことになります。
家康との間にいさかいが発生していたことから、家康と敵対して西軍の総大将となっていた毛利輝元から勧誘を受けますが、清正はこれを断っています。
西軍の首脳には三成が参加しており、彼の存在を嫌ってのことだと思われます。
一緒に三成を襲撃した福島正則や黒田長政らもみな家康に味方しており、三成がいたことが、西軍が諸将を味方につける上で、かなりの障害となっていたことがうかがえます。
清正は豊前(福岡県)に領地を持つ黒田官兵衛と連絡を取り、家康の東軍に味方することを表明しました。
この時に、家康の元には清正が上杉討伐の参加のために派遣した家臣たちが滞在していましたが、家康はこれを送り返して清正の東軍参加を承認しています。
家康にとっては天下取りが成功するかどうかの切所でしたので、過去のいさかいにこだわって、清正のような軍事に優れた人物を敵に回したくなかったのでしょう。
このように、清正は政治的に失敗を犯しても、軍事の才によって再び用いられるようになるというパターンを繰り返しています。
九州での活躍
清正は東軍に参加すると、黒田軍と連携して肥後の南部にある小西行長の領地に侵攻します。
行長は西軍に属しており、関ヶ原方面に出向いて不在でした。
清正は小西氏の本拠である宇土城を攻め落とすと、軍略に優れた黒田官兵衛と協力して、立花宗茂の柳川城も開城させるなどして活躍します。
清正や官兵衛らの軍勢は、おおよそ一ヶ月ほどで九州の大半を占拠し、残る薩摩の島津義久も攻撃しようとしますが、家康から攻撃を中止するようにとの連絡を受け、軍を引いています。
戦後になると家康から肥後の南半分を与えられ、52万石に加増されました。
19万石から倍以上になりましたので、清正の九州での働きが大きく評価されたことになります。
一方で行長は戦後に捕らえられ、三成とともに京都で処刑されています。
こうして清正は肥後一国の主となり、大きな出世を遂げました。
1605年には肥後守に叙任され、名実ともに大大名の地位を手に入れています。
徳川氏と豊臣氏の双方に仕える
関ヶ原の戦いの勝利後、権力を強化した家康は征夷大将軍となり、江戸に徳川幕府が開かれました。
これによって徳川氏の覇権が確立され、その石高は400万石にもなり、並ぶ者のいない大勢力となります。
一方で豊臣氏は天下人の地位から転落し、大坂周辺に65万石の領地を持つだけの、一大名として扱われるようになっていきます。
それでも清正は豊臣氏の親類でしたので、領地に3万石の蔵入地(豊臣氏の直轄地)を残し、年貢収入を送り続けていました。
これは家康からすれば面白くない行為だったでしょうが、清正はこれを緩和するため、徳川幕府との関係の強化も図っています。
家康には四天王と呼ばれる重臣がいましたが、そのうちのひとりに軍事に優れた榊原康政という武将がいました。
清正はこの康政の嫡男・康勝に娘のあまを嫁がせ、縁戚関係を構築します。
そして1606年に康政が急死すると、清正は年若い康勝の後見人となって藩政を補佐しています。
こうして徳川氏の譜代大名との関係を強化し、自家の立場の安定を図りました。
清正は徳川氏と豊臣氏の双方との関係が深くなり、やがて両者の間を取り持つことを考えるようにもなっていきます。
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