1561年、武田信玄は北信濃の川中島で四度目の対峙を迎え、この時にはじめて上杉謙信と決戦を行いました。
両者は長年に渡って抗争を続けており、宿敵と呼べる間柄でした。
この文章では、そんな両者の最初で最後となった、正面きっての大規模な対戦の様相について書いてみようと思います。
(なお、この時期の上杉謙信は政虎を名のっていましたが、この文章ではよく知られた謙信の名で記していきます。)
【信玄と謙信の一騎打ちを再現した石像】
北信濃における信玄と謙信の対峙
甲斐(山梨)を支配していた武田信玄は、さらなる勢力の拡大のため、隣国である信濃(長野)へと出兵を繰り返していました。
そしておおよそ10年の時を費やして、信濃の大半を手中に収めることに成功します。
しかし、越後(新潟)の上杉謙信がたびたび介入して来ており、信濃の北部は完全には制圧できないままでした。
はじめて信玄と謙信が川中島で対峙したのは1553年のことでしたが、それぞれの事情によって大規模な決戦は行われず、城を取ったり取られたりが繰り返されました。
それでも信玄は謙信の攻撃をかわしながら、じわじわと支配領域を北に広げていきます。
一方で謙信は関東の北条氏とも戦っていたため、信濃戦線に戦力を集中しきれていませんでした。
そのため時間がたつにつれ、北信濃では信玄の方が優勢になっていきます。
やがて信玄は海津城という拠点を設け、謙信の背後を脅かすと共に、同地の支配権を確立していきます。
これに対し、謙信には関東に出兵する上で、越後の後背地である北信濃の安全を確保しておきたい、という事情がありました。
このため謙信は1561年に、1万3千の大軍を率い、海津城の近くにある妻女山に布陣します。
信玄はこの時、2万の大軍を率いて海津城の救援に向かい、ついに両者の決戦が行われる情勢になりました。
川中島とは
長野盆地の南に犀川(さいがわ)と千曲川が合流する地点があり、そこから広がる土地が川中島と呼ばれていました。
越後と信濃を結ぶ交通の要所であり、そのうえ土地が豊かで米や麦の収穫高が多く、経済的にも重要な拠点でした。
そのため、この地を巡って長く信玄と謙信は争ってきたのです。
元々は村上義清という豪族がこの地で割拠していましたが、信玄の侵攻を受けて追い出され、謙信に救援を求めました。
謙信は北信濃の豪族・高梨氏と縁戚関係にあり、こちらを救援する目的もあって、義清を助けて北信濃の争いに介入します。
その結果、北信濃の完全制圧をもくろむ信玄と戦うことになりました。
川中島付近で信玄と謙信は3度に渡って対峙していましたが、その際には大きな戦いは行われませんでした。
しかしこの4度目の対戦で、ついに互いに全力で戦う機会が訪れました。
信玄の状況
信玄は謙信よりも多くの軍を率いていたものの、謙信の指揮能力の高さと越後軍の強さを警戒しており、安易には攻めかかりませんでした。
しばらくは謙信が布陣している妻女山と向かい合う位置に軍を置いていましたが、戦況が膠着したため、いったん海津城に入城します。
そして信玄は珍しく、自軍の側から積極的に上杉軍に攻撃をしかけることを計画します。
この時は信玄の方が大軍を率いていましたので、いつまでも攻撃をしなければ、謙信に臆しているのだと、周囲からみなされる恐れがありました。
北信濃の豪族たちは必ずしも信玄に心服していませんでしたので、信頼を失わないためにも、そのような弱気な姿勢を見せるわけにはいきません。
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