姜維は蜀に仕えて活躍した将軍です。
元は魏に仕えていましたが、降伏後、諸葛亮に見いだされて出世し、やがて蜀の大将軍となりました。
文武に優れ、魏軍にも何度か勝利しましたが、毎年のように大軍を動かしたので、やがて蜀を疲弊させてしまいます。
その隙を魏の大軍につかれると、蜀は防衛しきれずに滅亡しました。
姜維は蜀を復活させるため、魏の将軍・鐘会をたきつけて反乱をおこさせますが、失敗して戦死しています。
この文章では、そんな姜維について書いています。
【後世に描かれた姜維の肖像】
天水に生まれる
姜維は字を伯約といい、涼州の天水郡、冀県の出身でした。
202年に誕生しています。
幼い時に父を失い、母親と暮らしていました。
姜維は鄭玄という、高名な儒学者の学問を好んで学びます。
そして、いつか功名を立てようと志し、密かに決死の士を養い、民の生業には携わりませんでした。
出仕する
やがて姜維は郡に出仕して上計掾(記録官)となり、州に召し出されて従事(長官の側近)となりました。
父の姜冏はその昔、郡の功曹(人事官)をしていましたが、羌族の反乱が起きた際に、身を挺して郡将を守り、戦場に倒れてしまいます。
この父の功績の影響で、姜維は中郎の官位を授かり、天水郡の軍事に参与するようになりました。
功曹は地元の名士が就任する役職でしたので、姜維の家は、天水で勢力がある家柄だったことがわかります。
決死の士を養い、生業に関わらなかったことから、財産もあったようです。
諸葛亮が北伐を行う
228年になると、蜀の丞相・諸葛亮が北伐を実施し、天水の祁山へと攻めこんで来ました。
このとき、天水の太守・馬遵は巡察に出ており、姜維と功曹の梁緒、主簿(事務長)の尹賞、主記(記録官)の梁虔らが随行していました。
馬遵は蜀軍が押しよせ、諸県が呼応していると聞くと、姜維らも寝返るつもりではないかと疑います。
姜維は馬遵に「郡庁のある冀県に戻るべきです」と告げましたが、馬遵は「諸君らは信用できない。みな逆賊だ」と言い出します。
そして馬遵は夜のうちに逃亡し、上邽にたてこもりました。
諸葛亮に帰順する
姜維たちは馬遵が逃亡したことに気がつくと、後を追いましたが、城門が閉ざされており、中に入れてもらえませんでした。
このため、やむなく冀県に戻りましたが、こちらも姜維たちを迎え入れてくれなかったので、すっかりと孤立してしまいます。
こうして追いつめられた姜維たちはやむなく諸葛亮の元を訪れ、蜀に帰順しました。
すると、蜀の先鋒を務めていた馬謖が街亭で魏軍に敗北します。
そして攻撃拠点を失った蜀軍は、全軍が撤退することになります。
諸葛亮は西県を攻め落として千余軒の住民を連れ出し、姜維たちを率いて蜀に帰還しました。
この結果、姜維は母や妻子と離ればなれになります。
姜維は自らすすんで蜀に降ったわけではなかったので、姜維の家族は拘留はされたものの、処刑されずにすみました。
諸葛亮に抜擢される
諸葛亮は姜維の才能を高く評価し、倉曹掾(食糧管理官)に任命し、奉義将軍の官位を加えます。
そして当陽亭候の爵位も与えました。
降伏したばかりの、郡太守の部下に対するものとしては、かなりの厚遇だったと言えます。
姜維はこの時、27才でした。
諸葛亮からの評価
諸葛亮は留府長史(副官)の張裔と、参軍の蒋琬に手紙を送り、姜維を称賛しています。
「姜伯約は勤めを忠実に果たし、思慮は精密だ。
その才能には、李邵や馬良でも及ばないものがある。
彼は涼州における、非常に優れた人材である」
他にも、次のように書いています。
「まずは中虎歩軍の兵五、六千人の教練に用いてみた。
姜伯約は軍事に通じており、そのうえ肝がすわっており、兵士の気持ちを深く理解している。
しかもこの男は漢室に心を寄せており、人よりも優れた才能がある。
軍事教練が終わったら、宮中に参内させ、主上にお目通りをさせてもらいたい」
このようにして、姜維は諸葛亮に引き立てられ、蜀軍の幹部になったのでした。
後に中監軍・征西将軍に任命されています。
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