鐘会にもてなされる
鐘会は姜維に面会すると、「どうしてこんなにも来るのが遅かったのだ」とたずねました。
すると姜維は表情を引き締め、涙を流して「今日ここでお会いしたのは、むしろ早すぎたほどです」と言いました。
この様子を見て鐘会は、姜維は奇特な人物だと思いました。
鐘会は姜維らを手厚くもてなし、印綬や節、車蓋などを返却しています。
そして外出する時には姜維と同じ車に乗り、座にある時には同席しました。
そして長史(副官)の杜預に対し「伯約(姜維)を中原の名士と比べると、諸葛誕や夏候玄(いずれも魏の重臣)でも、彼には及ぶまい」と述べ、高く評価しました。
『世語』という書物には、「当時の蜀には天下の俊英が仕えていたが、姜維の右に出る者はいなかった」と書かれており、世評も非常に高かったようです。
鐘会を利用し、蜀の復活を計画する
姜維は鐘会が自分を大変に気に入っているのを見て、これを蜀の復活に利用できると考えました。
姜維の計画は、鐘会をそそのかして魏の諸将を殺害させ、その後で鐘会をも討ち、魏の兵士を生き埋めにし、蜀を蘇らせる、というものでした。
そして劉禅に密書を送り、次のように述べます。
「願わくば、陛下には数日の屈辱をお忍びください。
臣は危機に瀕した社稷(国家)を再び安んじ、光を失った日月を明るくするつもりです」
計画の実現性はともかく、姜維は蜀に対する忠誠心と、不屈の志を持っていたのでした。
鐘会をそそのかす
鐘会は元より反逆の意図をもっており、姜維は鐘会と接するうちに、その本心を見抜きました。
このため、計略を立てて鐘会に進言します。
「聞くところによると、あなたは淮南の役(諸葛誕の反乱)を鎮圧して以来、計画に誤りがなく、魏の政道が盛んになったのも、みなあなたの力によるものだとか。
いま、こうして蜀を平定され、威光と恩徳は世に響き渡り、民衆はあなたの功績を称賛し、主君はあなたの才能を畏れています。
このような状況で、いったい誰に身を寄せ、心を安んじられるおつもりですか。
かつて、韓信は戦乱の時代に漢を裏切りませんでしたが、平和になると疑われました。
文種は五湖に舟を浮かべて立ち去った范蠡の態度を見習わなかったので、自決を迫られてひどい死に方をしました。
(韓信も文種も、主君が天下を取るのに貢献しましたが、その後で処刑された人物です。范蠡はその危険を察知し、事前に脱出した人物です)
彼らの主は非情で、当人は愚かな臣下だったのでしょうか。
これは利害関係によって、自然とそうなったまでです。
いま、あなたは大きな功績を立てられ、大きな徳を明らかにしています。
どうして范蠡が舟を浮かべて行方をくらまし、功名と身の安全を保った行為にならい、張良のように峨嵋山に上って、仙人に従って遊ぼうとなさらないのですか」
すると鐘会は「あなたの言葉は現実離れしており、わしにはとても実行できない。
それに、とるべき手段はそれ以外にもあるだろう」と答えました。
姜維は「それ以外の手段(反乱)は、あなたの智力があれば、充分に実行可能です。
この老人をわずらわせるまでもないでしょう」と言いました。
この密議によって、二人の間はますます親密になり、鐘会は反乱に乗り気になっていきました。
鐘会には元より、天下を支配したいという野心があり、それに姜維が火をつけたのです。
ちなみに姜維は自らを「老人」と名のっていますが、この時すでに60才を超えていました。
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