孟光 権謀・才知を重視して直言をなし、人に嫌われた蜀の学者

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孟光もうこうは蜀に仕えた学者です。

特に史学に通じ、蜀の宮中のしきたりを制定するのに貢献し、やがて大司農(農務大臣)にまで昇進しました。

しかし、人の誤りを厳しい言葉で糾弾していたので、やがて嫌われるようになり、このために以後はさほど出世をしませんでした。

孟光なりの考えがあっての行動だったのですが、これが仇となり、やがて免官となってしまいます。

この文章では、そんな孟光について書いています。

洛陽に生まれる

孟光はあざな孝裕こうゆうといい、後漢の首都がある河南かなん郡、洛陽らくよう県の出身でした。

太尉たいい(国防大臣)である孟いくの一族でしたので、勢力のある家柄の生まれだったのだと言えます。

霊帝の末年に講部吏となりましたが、やがて董卓が台頭し、朝廷は混乱に見まわれます。

そして献帝が長安に移住させられた際に、孟光はそのまま蜀へと逃げ込みました。

劉焉・劉璋に客として礼遇される

この頃、蜀は劉えんと劉しょうの親子が統治していましたが、いずれも孟光を客として礼遇しています。

孟光は博学で、特に古代の知識に詳しく、様々な書物を読破していました。

中でも「三史」(『史記』『漢書』『東観漢記』)の研究を熱心に行い、漢王朝の古い制度に通暁します。

そして『公羊くよう春秋』を好み、『左氏春秋』には批判的でした。
(公羊春秋と左氏春秋は、どちらも『春秋』という史書の注釈書です)

同じく蜀に仕える学者の来敏らいびんとは、春秋の解釈をめぐって議論をしましたが、その際に孟光はよく、大声で自論をまくしたてました。

孟光は議論に熱中しやすく、また言葉が先鋭になりすぎる傾向にあったのです。

来敏もまた、言動や態度に問題がありましたが、「孟光は来敏に比べればまだましであった」と評されており、いずれにしても困った人たちだと見られていたようです。

劉備・劉禅に用いられる

その後、劉備が益州を平定すると、孟光は議郎に任命され、学士の許慈きょじとともに宮中の制度を定める役割を果たしました。

劉備が帝位につく際には、その儀式を取り定めています。

そして劉禅が即位すると、苻節礼・屯騎とんき校尉・長楽少府(皇帝の側近)となり、やがて大司農に昇進します。

孟光地図

満座の中で費禕を批判する

と、ここまでは順調に過ごしていましたが、246年に大赦令が出された際に、孟光は満座の中で、大将軍・費禕ひいを批判し、その責任を追及しました。

「そもそも恩赦は片手落ちの政策で、世がきちんと治まっている時には、あってはならないものです。

統治が衰退し、行き詰まった時にやむを得ずに実施するもので、あくまで臨時の措置です。

現在、主上(劉禅)は仁愛が深く、賢明であられ、百官は職務をきちんと果たしています。

いったいどのような危機や緊急の事態があって、たびたび特別に恩を下され、悪人たちに恵みを与えるのでしょうか。

鷹や隼が攻撃を始めるがごとく、我が国が魏を討伐するにあたって、罪ある者を許すというのは、自然の時節を上が犯すことになり、下は人間の道理に反することになります。

(この時、季節は秋で、通常は刑罰を執行する時で、恩赦を下す時ではありませんでした。孟光が言う「時節を犯す」というのはそのことを指しています)

私は老いており、政治の本質をつかんではいませんが、この法を長く続けるのは無理だと思われます。

民衆が仰ぎ見るような優れた措置、有徳の人に期待される措置だと言えるでしょうか」

孟光の言うことは理にかなっており、費禕はただ彼の方を見て、謝って恐縮するばかりでした。

【次のページに続く▼】