毛利元就はどうして厳島の戦いで陶晴賢(隆房)に勝利できたのか?

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暴風雨が有利に働く

元就が出陣を決意したその日の夕方、海上は暴風雨によって荒れていました。

しかし元就は「今日は吉日であるからひるむ必要はない」と言って全軍を出動させようとします。

家臣たちはそれでも恐れを抱き、なかなか乗船しませんでしたが、毛利氏の後継者である隆元が率先して船に乗り込むことで、家臣たちがこれに従った、という逸話があります。

元就はこの時、暴風雨のため、敵は海上への見張りを怠るだろうと予測していました。

織田信長も桶狭間の戦いで、豪雨に乗じて今川義元の軍勢に接近しましたが、奇襲をしかける側にとっては、悪天候はむしろ好条件になるのです。

元就の決意は言葉通りに吉と出て、海上に出るとやがて嵐は静まっていき、毛利軍は順調に航海をすることができました。

各部隊が厳島に展開する

元就は自分の船にだけに明かりをつけて他の船を先導し、夜のうちに密かに厳島の東部に上陸します。

そして兵の輸送に用いた船を元の港に戻らせて退路を断ち、決死の覚悟で戦いに挑む意向であることを、将兵たちに示しました。

西に回り込んだ別働隊は、厳島の大鳥居のあたりまで近づき、強風と闇にまぎれて海岸に近づきます。

こちらは敵兵に遭遇してしまいますが、「九州から晴賢様への加勢に参った」と告げ、偽って上陸を果たします。

村上水軍はそのまま沖合に待機し、上陸した部隊が動き出すのを待ち構えました。

こうして毛利軍は陶軍を包囲して奇襲するための準備を、夜のうちに整えきってしまいます。

攻撃開始

翌日の早朝のうちに本隊が動き出し、鬨の声を上げて味方に自軍の動きを知らせつつ、陶軍の背後に回り込んで攻撃を開始しました。

別働隊と、宮尾城に籠城していた部隊はこの動きに呼応し、晴賢が本陣を構えていた塔の岡を駆け上り、強襲をしかけます。

陸上で戦いが始まったのを見て、沖合にいた村上水軍は、晴賢の水軍への攻撃を開始し、船を焼き払いました。

前日は暴風雨だったので、毛利軍は渡ってこないだろうと判断し、油断していた陶軍はすっかりと狼狽してしまいます。

晴賢も、副将の弘中隆包も指揮を取る余裕が持てず、「一矢も放たぬままに引き下がった」と言われるほどの慌てふためきぶりで、崩れ立っていきます。

狭い島の中に大軍を展開したことが仇となり、各部隊は思うように身動きが取れず、混乱が助長されていきました。

追撃戦

こうしてすっかりと混乱に陥った陶軍は、晴賢の命令にも耳を傾けず、島から脱出しようと我先に輸送船を停泊させていた地点に向かいます。

しかしその頃には村上水軍による攻撃が行われ、その多くが焼き払われており、残った少ない船を奪い合う有様になりました。

このためにさらに多くの船が沈没してしまい、溺死者が多数出ています。

弘中隆包や三浦房清が手勢をまとめて防戦に努めますが、毛利軍の勢いを止めることはできず、晴賢もまた島からの脱出を考えるようになります。

その後、吉川元春と弘中隆包の間で激戦となりますが、やがて毛利側が押し始め、隆包は周囲に放火をして時間稼ぎをしました。

この時に元春は、火が厳島神社に延焼することを恐れ、追撃を取りやめて消火活動を行わせています。

厳島は近隣諸国に崇拝される神域であり、そこで戦う事自体に問題がありましたが、そのうえで神社を焼失させてしまえば、戦後に毛利氏が強く世間からの非難を浴びることになりますので、これを避けようとしたのでしょう。

元春は戦いに強いことで知られた武将でしたが、そのような政治的な配慮ができる一面も持っていました。

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