浅井長政はどうして織田信長を裏切って朝倉義景に味方したのか?

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宮部継潤の寝返り

しかし一方で、木下秀吉による浅井氏の家臣たちへの切り崩しは続いており、この年の10月には宮部継潤という武将が秀吉に寝返ってしまいます。

継潤の居城である宮部城は、小谷城を攻撃する際の拠点となる地点であり、ここを押さえられたのは長政にとって大きな痛手でした。

継潤はこの後の浅井氏との戦いで多くの武功を立て、長政を苦しめることになります。

継潤以外にも、小谷城の周辺の城主たちの動向が怪しくなって来ており、長政の信長への抗戦は限界に近づきつつありました。

この状況を打破するには、信玄が信長を倒してくれる以外に方法がなく、長政はその到着を待ちわびることになります。

この頃には他力本願にならざるを得なかった、ということでもあります。

信玄の進軍

この年の12月に、信玄は遠江の三方ヶ原で徳川・織田連合軍に圧勝し、東海方面での優位を確定させます。

そして長政と義景に、織田軍を北近江に釘付けにするようにと要請して来ました。

信長が軍を差し向けられない隙をついて、尾張や美濃に侵入してその根拠地を奪おう、というのが信玄の構想です。

これが実現していたら、あるいは信長は滅亡していたかもしれません。

義景の撤退

しかし義景は冬になったことで、またも雪が降って越前との交通が遮断されることを恐れ、撤退してしまいました。

また、この頃には朝倉氏の内部では、何度も大軍を近江に派兵したことで負担が大きくなり過ぎ、不満が高まってきていました。

このために近江に滞陣し続けるのが困難になっていた、という事情もあったようです。

事実、この滞陣の際に前波吉継や富田長繁といった武将たちが織田方に寝返っており、統率を取るのが困難になっていました。

こうして義景が去ってしまい、重圧がなくなった信長は美濃に撤退し、信玄の進軍に備えます。

数千の兵しか動員できなくなっていた長政には、単独で信長を追撃する実力が失われており、何もできずに見送っています。

こうして長政は、信長に勝利しうる最後の機会を失ってしまいました。

長政はかつて朝倉氏は頼りにならないと思って信長と結ぶ道を選んだわけですが、その判断が正しかったことが、皮肉な形で証明されたことになります。

信玄の死

翌1573年の年明けからしばらく、武田軍は三河に滞在したまま動きませんでした。

朝倉軍が撤退したことで、容易に尾張や美濃に進軍できなくなってしまったのが原因です。

信玄は義景に書状を送り「ここで信長を北近江に釘付けにしなければ、労を得ただけで、功を得ることができなくなる」と説得にかかりますが、義景はもはや家中の統率ができなくなっており、動けませんでした。

同時に、この頃にはかねてから病を得ていた信玄の体調が悪化しており、それも進軍が停滞する原因になっています。

やがて信玄は三河の野田城を攻め落としますが、そこが限界で、ついに寿命が尽きて4月には死去してしまいました。

これによって武田軍は甲斐に撤退し、包囲網の瓦解が始まります。

信長は東からの脅威がなくなり、再び北近江に大軍を差し向けることが可能になりました。

3度めの北近江の戦い

この年の7月になると、信長は3万の大軍を率いて北近江に三度姿を表します。

長政は義景に援軍を要請すると、こちらも2万の軍勢を率いて北近江に参陣しました。

しかしこの頃には朝倉氏は限界を迎えており、一部の重臣に従軍を拒否される事態が発生しています。

このために朝倉軍の士気は低く、まとまりを欠いており、それを信長に見抜かれてしまいます。

信長は朝倉軍は戦わずして撤退するだろうと判断し、配下の武将たちに朝倉軍の動向をよく監視しておくようにと命じました。

すると夜のうちに朝倉軍は読み通りに撤退を始め、これに気づいた信長は、自ら親衛隊を率いて朝倉軍を追撃し、大きな損害を与えました。

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