信長の油断
この頃の信長は、各地の戦闘を軍団長たちに任せきりにしており、自ら戦場に赴く機会が乏しくなっていました。
そして安土城で安楽な生活を送り、秘書たちに実務を任せ、家臣たちがもたらす果実を受け取るだけの存在になっていたのです。
信長はまだ49才でしたが、楽をし始めたことで、精神は既に老い始めていたのでしょう。
そのような環境が信長から警戒心を奪い、同時に権力の増大によって慢心していたことから、最低限必要な身辺警護すら、十分に施さなくなっていたのでした。
これが信長が光秀に討たれた、直接の原因です。
もしも信長がその立場にふさわしく、数千程度の兵でも常に身近に置いていれば、光秀が謀反に踏み切ることもなかったでしょう。
つまり、まだ戦乱が鎮まりきっていなかったにも関わらず、信長は油断をしていたのです。
身近にいる重臣への扱いの悪化、慢心、油断、これらの要素が合わさった結果、信長は招かずともよい破滅を、自ら招き寄せることになりました。
敵は本能寺にあり
一方、光秀は重臣たちと密談し、信長への謀反の意志を明らかにしていましたが、最後まで迷っており、決断を下せないでいました。
果たして本当にあの信長を倒せるのか、倒したとしてもその後、本当に天下を取れるのか、様々な迷いと不安が、光秀の胸には去来していたことでしょう。
そんな光秀に対し、娘婿の明智秀満が「思い立ったのなら、すぐにやってしまうべきです」と決行を促しました。
「既に重臣たちに話した以上、遠からず話が漏れ、信長に伝わってしまうのは確実です。なので、一度口にしたならば、やり切ってしまうしかないのが謀反というものです」というのが秀満の主張でした。
この秀満の進言によって、光秀もついに迷いを振り切り、1万5千の軍勢を率い、本能寺へ向けて出陣しました。
京に到着した光秀は、兵士たちに戦闘準備をさせ「敵は本能寺にあり」と宣言します。
本能寺が信長の宿舎になっていることはよく知られていましたので、この発言によって、家臣の全員に対し、謀反を起こすと明確に通達したのでした。
明智軍はまとまりがよく、これを聞いても逃げ出す兵士はほとんどいませんでした。
また、光秀の重臣たちからも離反者は出ていません。
このあたりの様子に、武士団というものの本質が示されています。
光秀は信長に仕えていましたが、光秀の家臣たちは信長に属しているという意識は乏しく、光秀が信長を討つと言ったら、光秀についていくのが当たり前だったのです。
このような主従関係のありようが、戦国時代に謀反が起きやすい原因になっています。
信長を討ち果たす
光秀は本能寺を包囲すると、間もなく攻撃を開始しました。
信長は何者かに囲まれたと知ると「嫡男の信忠が謀反の気を起こしたのだろうか?」と疑っています。
これは信忠が当時、京の二条城に滞在していたためで、さしあたって思い当たるのが信忠だけだったからでした。
このことから、信長は光秀が謀反を起こすかも知れないと、まるで疑っていなかったことがうかがえます。
信長自身も、供の者たちも、鎧や兜を持ってきておらず、このためにまともな装備なしで戦うことになりました。
既に秀吉が優勢になっていたとは言え、戦場に向かうところだったのに、あまりに気を抜きすぎていたと言えるでしょう。
明智軍が本能寺に侵入し始め、戦いが始まりましたが、1万5千と、武装が不足する100名の戦いですので、まるで勝負にはなりませんでした。
信長は自ら槍をふるって戦いますが、やがて負傷し、室内へと引き下がります。
そしてそこで切腹をして果て、天下統一を目前にして世を去ることになりました。
信長は死ぬ前に、自分の遺骸を光秀に晒されないよう、火をかけて焼き払うようにと命じていたようです。
このために信長の遺骸は発見されておらず、首をとられて晒し者にされることはありませんでした。
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