北条氏政と氏直が、小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされたワケ

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北条氏は戦国時代に5代、90年を費やして関東地方の大半を制し、覇者たる地位を手に入れました。

しかし制覇が完了間近になったところで、豊臣秀吉の討伐を受け、4ヶ月の戦いの後、あえなく滅亡しています。

秀吉と北条氏政うじまさ氏直うじなお親子が戦いに至るまでには、1年半の交渉期間があり、対応の仕方によっては、避けられたはずの滅亡でした。

この文章では、どうして北条氏は滅亡したのか、その過程を追っていこうと思います。

北条氏政

【北条氏政の肖像画】

九州征伐が完了し、秀吉は関東に目を向ける

秀吉は1587年に九州征伐を行い、島津氏を1ヶ月ほどの戦いで降伏させ、西日本の統一を完了しました。

そして天下統一を果たす上で、残る秀吉に従わない地域は、関東と東北のみとなります。

それゆえ、秀吉は関東の北条氏や、その周辺で独立を保つ諸大名に外交を行い、臣従するようにと促しました。

豊臣秀吉

【北条氏に臣従を促した豊臣秀吉】

関東とその周辺の情勢

この頃、北条氏は関東をほぼ手中に収めていましたが、まだ常陸ひたち(茨城県)の佐竹氏、安房あわ(千葉県南部)の里見氏、下総しもうさ(千葉北部)の結城ゆうき氏、下野しもつけ(栃木県)の宇都宮氏といった勢力が抵抗を続けています。

これらの大名たちは劣勢に追い込まれていましたので、秀吉に臣従を約束し、北条氏を討伐して欲しいと要請しました。

また、関東の北に位置する越後(新潟県)の大名・上杉景勝は元より秀吉に臣従しており、東海道と甲信地方を治める徳川家康もまた、秀吉に従っています。

つまり北条氏は、北も西も、すでに秀吉側の勢力に囲まれていたわけで、240万石の領地を持っているとは言っても、日本全体で見れば、孤立無援に近い状況に置かれていたのでした。

家康と北条氏の関係

一方で、家康はかつて秀吉と対決した「小牧こまき長久手ながくての戦い」の際に、北条氏と同盟を結んでいます。そして北条氏の当主・氏直に娘を嫁がせ、姻戚関係になっていました。

そして米沢の大名・伊達政宗もまた、常陸の佐竹氏と敵対していたため、利害が一致する北条氏と同盟を結んでいます。

ゆえに、彼らと力を合わせれば、秀吉にも対抗できるのではないかという望みを、北条氏は抱くことになります。

東海、甲信、関東、そして東北の一部を合わせれば、東日本にまたがる大勢力となり、さしもの秀吉も、そう簡単に打ち崩すことはできません。

北条氏はそのような認識でいたからこそ、秀吉になかなか臣従しなかったのだろうと考えられます。

しかし実際には、家康はいったん臣従した以上、秀吉に忠実に尽くして徳川家を守り抜くと決断をしており、既に北条氏の味方ではなくなっていました。

そして伊達政宗は北条氏と手を組む一方で、抜け目なく秀吉とも外交を行って関係を構築しており、言わば二股をかけていたのでした。

このため、北条氏が危機に陥っても、なお支援してくれるような勢力は、日本のどこにもいなかったのです。

このあたりの認識の誤りが、北条氏が滅亡した原因のひとつとなっています。

初期の交渉

秀吉からすると、北条氏を外交という手段にせよ、戦争という手段にせよ、屈服させるのは、東日本を制する上で、必須の条件になっていました。

ゆえに秀吉は1588年5月に、富田一白いっぱく妙音院みょうおんいんらを使者として遣わし、北条氏に臣従を促します。

秀吉の書状は、次のような内容でした。

「天下はみな王土(天皇の領地)であるのに、王臣である北条氏は、いくつかの国々を無断で押領おうりょう(私的に占有)し、それでいて一度も上洛をしていない。これは王臣のとるべき道ではない。速やかに上洛し、謝罪せよ」と大上段に構えた勧告を行いました。

この時、秀吉は朝廷を代表する関白という地位にあり、日本の3分の2を治めるほどの大勢力となっていましたので、一地方勢力である北条氏を、完全に格下扱いしたのです。

かつて、家康に上洛を促した際には、妹を嫁がせ、実母を家康の元に送って上洛を促す、という下手したでに出る手段を用いました。

その時の秀吉はまだ九州征伐を実施しておらず、西と東に敵を抱えていました。

それゆえ、東の家康をなんとしても懐柔したいと思い、人質を送ってまでして家康を従わせたのです。

しかし九州を制覇した今、もはや秀吉の体制は盤石となっており、北条氏に対しては、なんら遠慮をする必要がなくなっていました。

一方で、北条氏は関東の覇者であることを誇りにしており、秀吉の上から命令を下す態度に、感情を傷つけられました。

このため、北条氏の前当主・氏政は「用事が多いから上洛は難しい。2年後までにはそれらを片づけ、上洛する」と回答します。

これは実際の所、上洛を拒むための言い訳で、氏政は秀吉に従う気はありませんでした。

そして氏政は、最後まで秀吉に従わないまま、死んでいくことになります。

【次のページに続く▼】