韮山城の奮戦
また、韮山城は最初に秀吉と交渉を行った、北条氏規が3600の兵とともに守備についていました。
氏規は外交だけでなく、戦闘も得意としており、4万4千という大軍に攻め込まれたにも関わらず、これを撃退しています。
攻撃をしかけたのは、細川忠興や福島正則、蒲生氏郷といった猛者たちですので、彼らを撃退した氏規が、優れた武将だったことがわかります。
秀吉は攻撃が失敗したと知ると、韮山城を攻め落とすのは容易ではないと判断し、2万の軍勢を残して包囲させ、こちらでも持久戦を行っています。
やがて氏規と親しい家康が使者を送り、すでに関東各地の城が落ちており、小田原城も危なくなっているので、韮山城を出て小田原に入り、氏政や氏直のために力を尽くすべきではないか、と説きました。
氏規はこれを受け入れ、6月24日に家康に城を明け渡しました。
氏規は大軍を相手に、100日間に渡って韮山城を守り通しており、知勇を備えた名将であるとして、称賛を受けることになります。
伊達政宗の臣従
このように、忍城などの善戦があったものの、大勢には影響がなく、全体の状況は秀吉が圧倒的に有利となっていました。
そしてこの状況を見て、伊達政宗はついに重い腰を上げ、6月初旬に小田原を訪れ、秀吉に遅参を謝罪しています。
秀吉は手にしていた杖を政宗の首にあて、「もう少し遅ければ、その首が飛んでいたぞ」と脅しつけますが、政宗の申し開きを受け入れ、臣従を認めて72万石の領地を安堵しました。
政宗はもしも北条氏が有利になったら、そのまま北関東の攻略に乗り出そうと計画しており、このために状況をぎりぎりまで見守っていたのです。
しかし小田原や関東の状況を知り、これ以上の野心は身を滅ぼすことになると悟り、攻め込まれる前に秀吉に屈したのでした。
このあたりの政宗の、引き際をわきまえた状況判断力は、氏政や氏直よりもはるかに優れていました。
ゆえに政宗はこの後も、様々な謀略をしかけ続け、秀吉や家康ににらまれながらも、無事に生き延びて伊達氏を存続させることになります。
【伊達政宗の肖像画】
政宗の外交
伊達氏は元より外交上手な家柄で、かつて政宗の父・輝宗は織田信長と友好関係を作っていました。
関東よりもさらに京から遠い、東北の大名でしたが、常に中央の情勢にも目を配り、伊達氏存続に必要な活動を欠かさなかったのです。
政宗もその傾向を引き継いでおり、秀吉と個人的に親しい前田利家や、義弟の浅野長政、側近の施薬院全宗といった人物たちに定期的に手紙を送り、贈り物をして親交を保ち、何かあっても秀吉に取りなしてもらえる状況を作っていたのです。
このあたりの様子から、政宗は秀吉の人間関係をも細かく、正確に把握していたことがわかります。
それゆえ、小田原城が落城する一ヶ月前という際どいタイミングでも、秀吉に遅参を許してもらえたのでした。
このあたりの、実力者を相手にした巧みな立ち回りは、北条氏には完全に欠けていた能力でした。
言わば、政宗は狡猾で器用で、北条氏は朴訥で不器用だったのです。
相次ぐ寝返り
秀吉はただ包囲を続けていただけでなく、城内の武将に離反工作をしかけていました。
6月になると、各地の城が落ちた影響もあって、それが効果を発揮し始めます。
まず6月5日に、150名を率いて籠城に参加していた和田左衛門という武将が、兵舎を焼いてから、城を脱出して家康に投降します。
これによって、城内の士気が低下していることが明らかになりましたが、続いて松田憲秀という、北条氏の重臣中の重臣が秀吉に内通し、城内に衝撃が走ります。
松田は5千の兵力を持ち、氏政や氏直が信頼を寄せていた武将でした。北条氏の政務を取り仕切る役目を担っており、柱石とも言える立場にあります。
しかし松田は、密かに包囲軍の堀秀政や安国寺恵瓊と連絡を取っており、寝返りの条件を交渉していました。
そして6月10日になると、相模(神奈川県)一国を与えられることを条件に、6月16日の夜、城内に火を放ち、包囲軍を侵入させると約束します。
しかしこの陰謀は、松田の次男、直憲が氏直に訴え出たことで発覚し、未然に防がれました。
氏直は陰謀を主導した松田の長男・政春を誅伐し、松田を拘禁して事態を収拾しました。
しかし、重臣ですらも寝返ろうとしたことに、氏直ら北条氏の首脳部は衝撃を受け、城内には疑心で満ちていきます。
籠城は城内の人心がひとつになってこそ、継続できるものですが、松田の寝返りによってそれが不可能となったことが、人々に悟られるようになります。
【次のページに続く▼】