大谷吉継 石田三成との友情に殉じた義将の生涯について

大谷吉継は関ヶ原の戦いで西軍の首謀者となり、決戦場でも力を尽くして戦い抜いた武将です。

吉継はもともとは徳川家康の実力を高く評価してその味方になっており、石田三成にも家康に恭順するようにと勧めていました。

しかし三成の家康打倒の意志が強いことを知ると、不利を承知で友人である三成に味方します。

この文章では、そんな利害を超えた行動を取った、大谷吉継の生涯について書いてみます。

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【江戸時来に描かれた大谷吉継の肖像画】

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近江に生まれる

大谷吉継は1565年に近江(滋賀)で生まれました。

父は六角氏の旧臣・大谷吉房で、母は東殿という女性です。

この東殿は豊臣秀吉の妻・高台院の縁者で、後にその侍女になり、取り次ぎ役の地位にもついています。

つまり吉継は生まれながらにして、秀吉との縁が深い立場に置かれていました。

秀吉に仕え、馬廻りになる

吉継は1573年、8才の時から近江・長浜の領主となった秀吉の小姓として仕え始め、長じるとその親衛隊である馬廻りの一員になります。

秀吉はこの頃に、織田信長の軍団長として中国地方の攻略にあたっており、吉継の名も参戦者の名簿の中に見出すことができます。

この時期は秀吉の側にいて、軍事や調略など、武将として活動する上で必要となる能力の習得に励んでいたと思われます。

この時期に同じく秀吉の側に仕えていた若武者たちの中には、石田三成や加藤清正、福島正則らもおり、彼らと切磋琢磨しながら成長していきました。

本能寺の変

1582年になると、織田信長が家臣の明智光秀に討たれる「本能寺の変」が発生します。

秀吉はこの機に素早く近畿に舞い戻り、軍勢を集めて明智光秀を倒し、信長の仇討ちに成功します。

この結果、秀吉は独立した大きな勢力を持つにいたり、その家臣である吉継の境遇も変化していくことになります。

賤ヶ岳の戦い

秀吉はやがて織田家の重臣・柴田勝家と対立するようになり、1583年には、両者の間で「賤ヶ岳の戦い」が行われます。

この際に吉継は、勝家の養子で近江の長浜城主となっていた、柴田勝豊を寝返らせる工作に成功します。

長浜城はかつての秀吉の居城で、近江の重要拠点でしたので、この働きによって吉継は秀吉陣営を有利に導きました。

秀吉と勝家、両者の率いる大軍は近江北部の賤ヶ岳でにらみ合いとなりますが、やがて均衡が崩れて激戦となります。

この時に秀吉は近習たちにも前線に出るように促し、加藤清正や福島正則らは、「賤ヶ岳の七本槍」と称される目立った戦功を上げています。

吉継はこれにつぐ「三振の太刀」と賞賛される手柄を立てて領地を加増され、以後は軍を率いる武将として活動していくことになります。

1585年の紀州征伐では、抵抗を続ける杉本荒法師を槍で一突きにして討ち取ったという記録もあり、武勇に秀でていたことがうかがえます。

兵站や内政に活躍する

吉継は戦場や調略で活躍する才能も持っていましたが、経理や内政の才能も優れており、秀吉からはこちらの方面で重用されることになりました。

1586年に秀吉は九州征伐をしますが、この時は兵站奉行となった石田三成の元で、補給や輸送の実務にあたっています。

また、三成が堺奉行に任じられると、またしてもその配下として内政に携わることになります。

三成とは子どものころから小姓として同じ仕事をしていましたが、この頃になると、三成が奉行衆の筆頭格となり、吉継はその部下として働くようになっていました。

二人はかねてより親しかったようで、その間には強い友情も育まれていきます。

【次のページに続く▼】

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戦国時代 豊臣 石田 大谷
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