応仁の乱は1467年から1477年まで、11年もの長きに渡って続いた内戦です。
室町幕府の将軍家と守護大名、そして朝廷の公家と皇族までもが東軍と西軍に別れて抗争を繰り広げました。
乱が発生した直接の契機は、実力者の細川勝元と山名宗全が対立したことにあり、両陣営に様々な勢力が参加していったことで、収拾のつかない事態となりました。
この時代は政治の中枢を担うべき将軍の権威が、著しく低下していった時期にあたっており、そのために家臣たちの争いを鎮めることができず、内乱が発生したのです。
そしてこの乱の結果、幕府や朝廷の統制力が低下し、地方で独立割拠するものが次々と現れ、いわゆる戦国時代が訪れることになりました。
この文章では、応仁の乱の経緯や、当時の社会の変動の様子について、書いてみようと思います。
【応仁の乱発生時の将軍・足利義政の肖像画】
不安定な将軍の権力
室町幕府はその発祥の頃から、足利将軍家の権力基盤が不安定で、家臣である守護大名たちの力が強すぎる、という問題を抱えていました。
守護大名は各地の治安維持や裁判を担当する役職ですが、領内の荘園や国衙領などの税の半分を徴収できるという権限も持っており、それを元に財力や軍事力を蓄えていきました。
日本全国66ヶ国のうち、細川氏が9ヶ国を、山名氏が11ヶ国を支配していたことがあるほどで、つまりは日本の6分の1から7分の1という広大な領域を支配する大名家が、いくつも存在していたことになります。
このため将軍の統治力には、自ずと限界が生じることになりました。
これは室町幕府の創始者である足利尊氏が、非常に気前のよい人物であり、家臣たちに多くの領地を分け与えたのがその原因となっています。
尊氏には人望があったために、それでも統制ができていたのですが、時代が下るにつれ、その後を継いだ足利将軍家の者たちは、守護大名たちとの関係に悩まされることになりました。
それぞれの将軍たちの対応
3代将軍の義満は、守護大名同士を争わせて弱体化させつつ、巧みに自身の権力を増大し、統治体制を安定させました。
4代将軍の義持(よしもち)は、調停に努めてなるべく争いが起きないようにし、温和な形で、こちらも安定した治世を実現しています。
しかし6代将軍の義教(よしのり)は強権的な政治を行ったため、守護大名から大きな反発を受けることになりました。
この義教の施策が、応仁の乱の遠因となります。
嘉吉の乱で将軍が殺害される
1428年に将軍になった義教は、守護大名たちを実力で押さえ込むことで、自身の権力の強化を計るという方針を掲げ、専制的な統治体制の構築をもくろみます。
将軍の直属軍を編成し、逆らった守護大名を攻撃して殺害したり、当主を自分に従う者にすげ替えたりすることで、強固な支配権を確立しました。
この時期には守護大名のみならず、公家もまた義教が不快に感じることを発言しただけで処罰されたり、暗殺されるなどしており、暴力によって恐怖を与えることで、成立していた政権なのだと言えます。
やがて義教は、播磨・美作・備前(兵庫県から岡山県あたり)の三ヶ国を支配する守護大名・赤松氏の当主人事にも介入しますが、これが命取りになりました。
義教と関係が悪く、いずれ誅殺されるという噂が立った赤松氏の当主・満祐(みつすけ)は、先手を打って義教を自邸に招待し、その席で義教を殺害しました。
これは1441年に起きた事件で、当時の年号を取って「嘉吉の乱(かきつのらん)」と呼ばれていますが、将軍が家臣によって殺害される事態が発生したことで、その権威が損なわれ、幕府の基盤が大きくゆらぐことになります。
義教は恐怖政治によって、一時的に将軍の権勢を強化しましたが、結果としては、かえって幕府の寿命を縮めてしまったのだと言えます。
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