王朗は曹操・曹丕・曹叡の三代に仕えた魏の宰相です。
博識で経典に通じており、徳を備えていたために重用されました。
たびたび政治や戦略に対する有益な提言をしており、魏の国策に影響をおよぼしています。
この文章では、そんな王朗について書いています。
東海で生まれる
王朗は字を景興といい、徐州の東海郡の出身でした。
経典に通じていることから、郎中になり、やがて菑丘の県長に任命されます。
王朗は太尉の楊賜に師事していましたが、楊賜が亡くなったので、官を離れて喪に服しました。
その後、孝廉に推挙され、三公の役所に招聘されましたが、応じませんでした。
陶謙に仕え、会稽太守になる
それからしばらくすると、徐州刺史(長官)の陶謙が、王朗を茂才に推挙しました。
これを受け、王朗は陶謙の治中(補佐役)になります。
この時、献帝は長安に在住していましたが、そこから離れた関東では兵乱が発生していました。
王朗は別駕(刺史の側近)の趙昱とともに、陶謙に説きます。
「『春秋(歴史書)』の道義によれば、諸侯に要求を通すためには、勤王であるにこしたことはありません。いま天子は西の京におわしますが、使者を派遣し、王命をうけたまわってください」
陶謙はこれを受け入れ、趙昱に上奏文を預け、長安に向かわせました。
すると献帝はその意志を嘉し、陶謙を安東将軍に任命します。
また、趙昱は広陵太守に、王朗は会稽太守になりました。
善政を行う
王朗は会稽に赴任しましたが、この地では昔から秦の始皇帝を祭っていました。
そして木像を刻み、夏王朝の祖である禹と同じ廟に設置しています。
王朗は、始皇帝は徳のない君主だったので、祭るのはふさわしくないと考え、これをやめさせました。
王朗は会稽を四年に渡って統治しましたが、民を慈しんで恩恵をもたらします。
孫策に敗北する
やがて孫策が長江を渡ってきて、各地を侵略してきました。
王朗に仕える功曹(人事官)の虞翻は、力で立ち向かうのは不可能なので、戦うのは避けた方がよいと考えます。
しかし、王朗は自分が漢の官吏であるのだから、城邑を保持しなければならないと考え、兵を挙げて孫策と戦いました。
ですが敗北し、海を渡って東冶にまで逃亡します。
そこでも孫策の追撃を受け、大敗しました。
このため、王朗は孫策の元を訪れます。
孫策は王朗が儒教を治めた立派な人物だったので、詰問はしたものの、その身を害することはありませんでした。
この敗北の時期、流浪と窮乏の中で、朝にはその日の夕方を考えることもできないほど厳しい状況でしたが、王朗は親族や旧知の者たちを集め、よく面倒を見ます。
分割する物資は多かったり少なかったりしたことはあったものの、道義に基づいた行いが目立っていました。
立身し、法の運用を高く評価される
その後、王朗は曹操に召し出されましたが、曲阿から長江や海を行き来して、数年をかけてようやく到着します。
それから諫議大夫に任命され、司空(大臣)の軍事に参与します。
魏国が建国されると、軍祭酒の立場のままで、魏郡の太守を兼務しました。
そして少府、奉常(儀礼の司)、大理(法務長官)と転任し、出世していきました。
王朗は裁判を司っていた時、寛容に裁くことに努め、罪に疑いがあると、罰を軽くするようにします。
魏の高官である鍾繇もまた、大理の地位に就いていたことがありますが、こちらは洞察力によって法を運用し、ともに優れた裁判官だと評価されました。
曹丕に進言をする
曹丕が魏王になると、王朗は御史大夫(国政参議官)となり、安陵亭侯に封じられます。
この時に王朗は、民を育み、刑を減らすために次のように述べました。
「兵乱が発生してから三十余年がたち、四海の内はくつがえり、万国は病み疲れ、衰えています。先王(曹操)は賊を討伐され、幼い孤児を扶育され、ついに中国に規律が取り戻されました。
たくさんの人民が集められ、魏の土地では鶏が鳴き、犬が吠え、四方の境界にまで届いています。庶民が平和を喜べる状態になりました。いま、遠方の敵はまだ従っておらず、戦いは終息していません。役務を減らして遠くの民を懐かせ、よい統治者が恩徳をほどこし、縦横にあぜ道が設置され、四方の民が栄えれば、必ず昔を越え、平素よりも富むことでしょう。
『易』は『法を勅う』と称し、『尚書』は『刑を祥う』、『一人(天子)慶あれば、兆民これを頼る』といいますが、これは刑罰を慎重にするということです。その昔、曹相国(曹参・前漢の二代宰相)は、中央に転任する際に、牢獄と市場のことを後任者に託し、路温舒(前漢の官吏)はむやみに有罪にしようとする裁判官を憎みました。
裁きが適正に行われれば、無実なのに死ぬ者はいなくなります。壮年の者が土地の力を活用すれば、飢饉に苦しむ民はいなくなります。貧窮した者や老人が倉庫から食糧を与えられれば、飢えて死ぬ者はいなくなります。結婚が適切な時期に行われれば、男女は相手がいない恨みを抱くことがなくなります。胎児の養育が適切に行われれば、身ごもった者が体を損なう悲しみはなくなります。新生児を育てている者が役務を負担しないですむようにすれば、幼児が育たないことはなくなります。壮年になってから役務を課せば、未成年の者が家を離れる悲しみはなくなります。白髪まじりの者を徴兵しなければ、老人が急に行き倒れることはなくなります。
治療や投薬によって病を癒やし、寛大な役務によってその仕事を楽しませ、威と刑罰によって強者を抑え、恩徳と仁によって弱者をたすけ、援助によって貧しい者を救います。そうすれば十年の後、ちまたに若者たちがあふれるでしょう。二十年後には、勝利をもたらす兵士たちが、野に満ちるでしょう」
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