王粲は字を仲宣といい、山陽郡高平県の出身でした。
曽祖父の王龔や、祖父の王暢は、いずれも漢の時代に三公(大臣)にまでなっています。
そして父の王謙は、大将軍・何進の長史(副官)でした。
王謙が名声を備えた三公の家柄の出身だったことから、何進は二人の娘を王謙に見合わせ、どちらかを選んで結婚してくれないかと求めます。
しかし王謙はこれを断りました。
やがて病気になったので免官となり、家で亡くなっています。
蔡邕に賞賛される
その後、董卓が台頭し、献帝が長安に遷都すると、王粲はこれにしたがって長安に移住しました。
このころ、左中郎将の蔡邕が王粲と会い、優れた才能を持っていると認めます。
蔡邕は当時、学問に優れたことで知られており、朝廷で尊重されていました。
つねに車馬が邸宅の周囲をうずめ、賓客が座を満たしていました。
そして門のところに王粲がやってきたと聞くと、蔡邕は履き物をつっかけて、これを迎え出ます。
王粲が中に入ると、年は幼く、容貌が貧弱だったので、その場にいた者たちはみな驚きました。
蔡邕は「この人は王公の孫だ。優れた才能を持っており、わしも及ばないほどだ。わしの家にある書籍や文章は、みなこの人にあげることにしよう」と述べ、王粲を高く評価していることを表します。
劉表の元を訪れる
十七才の時、司徒(大臣)に招かれて黄門侍郎(宮廷官)に任命されました。
しかしこのころ、長安では騒乱が発生していましたので、王粲は就任しませんでした。
そして荊州の劉表を頼って、そちらに移住します。
しかし劉表は、王粲の容貌が優れず、体が弱くて態度が軽々しかったことをよしとせず、重く用いることはありませんでした。
曹操に帰順する
やがて劉表が亡くなると、王粲はその子の劉琮に、曹操に降伏するようにと勧めます。
そして劉琮が降伏すると、曹操は王粲を丞相の掾(属官)に任命し、関内侯の爵位を与えました。
それから曹操が漢水のそばで宴会を開くと、王粲はさかずきを掲げてお祝いを述べます。
「袁紹は河北で決起し、多くの軍勢を頼みとし、天下を併合しようと志しました。
しかし賢者を好んでも用いることができず、このために有能な者たちは彼の元を去っていきました。
劉表は荊楚を保ち、時勢を観望し、自らは西伯(周の文王。子の武王が周王朝を建国した)になれるのだと思っていました。
士人は乱を避けて荊州にやってきていましたが、みな天下の俊英たちです。
しかし劉表は彼らを任用することができず、このために国が危機に陥っても、助ける者がいませんでした。
明公が冀州を平定した際、車から降りるとすぐに軍勢の体制を立て直し、その地の豪傑を起用し、天下に横行されました。
そして長江や漢水を平定されると、その地の賢人・俊英を呼んで官位を与え、国内の衆望を集め、統治してほしいという願いを巻き起こしています。
文武をともに用い、英雄が力を尽くしていますが、これは三王(夏・殷・周、歴代王朝の創始者)の行いだと言えます」
魏で重用される
後に王粲は軍謀祭酒に昇進しました。
それから魏が建国されると、侍中(王の側近)に就任しています。
王粲は博学かつ多識で、問われても答えられないことがありませんでした。
後漢末期の動乱において、玉珮という飾り物が完全に失われてしまいました。
しかし王粲は玉珮についての知識を持っていたので、これを復元することができた、という話があります。
王粲の博識ぶりを表す挿話です。
当時、旧来の儀礼は廃止されたり、緩められたりしていました。
そんな中、新しい制度を作るにあたり、王粲はいつもこれを担当します。
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並外れた能力を備えていた
それより以前のこと、王粲は人と一緒に歩いている時に、道端にある石碑を読みました。
そして人に「卿は暗誦することができますか?」と問われます。
王粲は「できます」と答え、石碑に背を向けて唱え始めましたが、一字も間違えませんでした。
またある時、人々が囲碁を観戦していると、盤面が崩れてしまいます。
これを見ていた王粲は元に戻したのですが、打ち手はこれを信用しませんでした。
なので他の盤を持ってきて、そちらを再現できるか試してみたところ、王粲は一つの石も間違えずに、同じように並べて見せました。
このように、王粲には並外れた記憶力が備わっていたのでした。
また、生来計算が得意で、算術を開発し、その理をおおむね極めます。
文章を作るのも得意で、筆をあげるとすぐに完成させることができました。
そして書き改めることがなかったので、人はいつもあらかじめ文章を作っていたのだろうと思い込みました。
しかし王粲は心を尽くして思いを深め、それ以上はできないほど、能力を伸ばそうと努力していたからこそ、他の人にはできないようなこともできたのでした。
王粲は六十にのぼる詩、賦、論、議を著しています。
曹丕が五官将となったころ、弟の曹植とともに文学を愛好していました。
王粲は北海の徐幹、広陵の陳琳、陳留の阮瑀、汝南の應瑒、東平の劉楨らとともに、友人として遇され、文人としても名を成しています。
やがて亡くなる
建安二十一年(二一七)になると、呉の征伐に参加しましたが、翌年に道中で病にかかり、亡くなりました。
四十一才でした。
王粲には二人の子がいましたが、魏諷が都で起こした反乱に加わったため、処刑され、家系は絶えてしまいました。
このころ、曹操は漢中に遠征していましたが、王粲の子が死んだと聞くと「もしもわしがその場にいたならば、仲宣(王粲)の後継ぎを絶えさせはしなかったのだが」と言って嘆きました。
王粲評
三国志の著者・陳寿は
「その昔、文帝(曹丕)や陳王(曹植)は公子の尊さを備え、ひろく文学を好んだ。
そして同好の士たちが集まり、文才のある者たちが登場した。
その中でも王粲ら六人たちが最も名声を得て、注目された。
そして王粲は特に側近の官位にあり、一代の制度を興した。
しかし虚心にして徳を備えていた、徐幹のまじりけのなさには及ばなかった」
と評しています。
曹操も、子の曹丕も曹植も詩文を愛好したので、魏には文才のある者たちが集いました。
王粲はその代表的な人物の一人として取り上げられています。
王粲には官吏としての才能もあったので、もっとも身分が高くなり、朝廷にとって重要な役割を果たすことにもなりました。