李厳(李平) 文武両道なれど、偽りを述べて諸葛亮に処罰される

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諸葛亮に次ぐ立場につく

その後、李厳は都郷候ときょうこうの爵位を与えられ、仮節かせつ(独立指揮権)と光禄勲こうろくくん(皇帝の側近)の官位をも加えられています。

さらに226年には前将軍となり、さらに地位が高まりました。

丞相じょうしょうにして大将軍の地位にあった、諸葛亮の次席の立場についたのだと言えます。

227年に、諸葛亮は魏を討伐するために漢中に出陣しますが、後事を李厳に任せることにしました。

このため、李厳の陣営を江州に移動させ、かわりに護軍の陳到ちんとうを永安に駐留させ、李厳の配下にすえます。

李厳はこの時期に、江州に大きな城を築いたという記録があり、この地の防衛を固めました。

こうして諸葛亮は進軍するための準備を整えましたが、これは結果として、後に災いをもたらすことになります。

孟達に手紙を送る

李厳はこの頃、魏に降伏していた孟達もうたつに手紙を送り、次のように述べました。

「私は孔明(諸葛亮)とともに、先帝(劉備)の命を受けました。

憂いは深く、責任は重大です。

このためよい助言者を得たいと願っています」

諸葛亮もまた孟達に手紙を送り、述べました。

「各部署がよどみなく動き、渋滞するところがないのは、李厳の働きによるところが大きいのです 」

李厳はこのように、蜀において重用されていたのでした。

諸葛亮に王位を求めるべきだと勧める

この頃に李厳が、諸葛亮に送った手紙が『諸葛亮集』に掲載されています。

そこで李厳は諸葛亮に九錫きゅうしゃくを受け、爵位を進めて王を称するべきだと勧めました。

九錫とは、特別な功績があった臣下に与えられる褒賞のことです。

かつて、曹操はこれを受けて魏公の地位につき、その子の曹丕が後漢から帝位を奪い取りました。

それを諸葛亮に勧めた李厳には、軽率なところがあったようです。

諸葛亮の返書

李厳に対し、諸葛亮は次のように返書を出しました。

「私とあなたは知り合ってから長くなりますが、それでも私のことを理解していただけていないのでしょうか。

あなたはいま、国家を輝かせよと教示され、かたくなになるなと戒めておられます。

だからこそ、私は黙っているわけにはいきません。

私は元々、東方の身分の低い士人でしたが、誤って先帝(劉備)に用いられ、いまや位は人臣を極め、百億の俸禄を賜っています。

しかし現在、賊を討伐しても効果がなく、厚遇に対してもお応えすることができないでいますのに、斉や晋にも匹敵する恩寵(九錫)をお受けし、自分からすすんで高貴な身分を望むのは、道義に外れる行いです。

もしも魏を滅ぼすことができ、曹えいを切り捨て、天子(劉禅)が元の皇居にお戻りになられ、諸君とともに出世をするのであれば、十錫でもお受けする所存です。

まして、九錫なら遠慮しません」

このように、諸葛亮は李厳の言葉に惑わされることなく、王位を望むようなことはありませんでした。

李厳は、自身が地位や名誉を欲深く求める性質でしたので、諸葛亮を先に出世させ、それにともなって自分の身分をさらに高めようと考え、このような手紙を出したのだと思われます。

さらに身分が高まり、漢中に駐屯する

230年になると、李厳は驃騎ひょうき将軍に昇進しました。

これは大将軍に匹敵するほどの将軍位ですので、李厳の地位はさらに高まったことになります。

この頃、魏の大将軍の曹しんが、三道から漢中をうかがう様子を見せたので、諸葛亮は李厳に命じて二万の兵を率いさせ、漢中に向かわせました。

そして諸葛亮は上表し、李厳の子の李豊を江州都督督軍にして、李厳の留守中の職務を取り仕切らせます。

諸葛亮は翌年に出陣する予定になっていましたので、李厳に漢中の政務を担当させました。

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