李厳(李平) 文武両道なれど、偽りを述べて諸葛亮に処罰される

スポンサーリンク

もうひとつの書簡

この他にもう一つ、尚書(政府)に奉った、諸葛亮の文章が残っています。

「李平は大臣となり、分に過ぎた恩寵を受けたにも関わらず、忠義を尽くして恩義に報いようとせず、思いのままに根拠のない話をでっち上げました。

そして危険も恥もわきまえず、上下の者を惑わせ、裁判においては法律を無視し、人を悪事へ導くなど、心ばえが狭く、狂気を抱いており、まるで天も地もないようなありさまです。

自ら悪事が露見するのを予測し、猜疑さいぎ心が生じたので、私の軍が帰還すると聞くと、西方に向かい、病気と称してしょうの家に帰り、軍が沮に到着すると、今度は江陽に帰ろうとしました。

しかし李平の参軍・狐忠がかん言をしたので、ようやくそこで思いとどまりました。

現在、簒奪さんだつの逆徒(魏)がまだ滅亡しておらず、国家は多事多難ですので、国事に関してはひたすら協調に努め、勝利を得ようとするべきです。

良きも悪しきも包み込むことによって、大業を危険に陥れてはなりません。

重臣たちと協議し、即刻李平を解任し、官録、割符、印綬、辞令を召し上げ、爵土を没収することにいたします」

この文書から、李平は偽りを述べたてた後、見苦しく逃げ回っていたことがわかります。

有能ではあっても逆境に弱く、失敗を認めることができなかったために、結局はすべて失うことになったのでした。

諸葛亮は公正な人物ですので、素直に失敗を認めていれば、一度の過ちによって、身分を全て剥奪するほどの厳罰を下すことはなかったでしょう。

李平には、そのあたりのことが理解できていなかったようです。

李平は庶民に落とされた後、梓潼しとう郡に流刑となります。

李平を復帰させる意向を持っていた

諸葛亮はこうして李平を罰しましたが、子の李豊は官にとどめおいています。

そして李豊を諭し、次のように述べました。

「私は君たち父子と力を合わせて漢王室を押したててきたが、これは神々もご承知のことであり、人間だけが知っていることではない。

上表して李平に漢中を司らせ、君に江州を託したのは、私の一存で決めたことであり、誰かと相談して決めたことではなかった。

私は心から、終生変わらずに、李平が務めを果たしてくれるものと思っていたのだ。

それが道半ばにして背くなど、まるで予想していなかった。

昔、楚の卿(子文)は、何度も退けられたが、そのたびに復帰した。

(子文は楚の宰相に三度任命され、三度罷免された人物です。『論語』で触れられています)

道に従えば、やがて幸福が訪れるのは、自然の定めである。

願わくば、李平の心をなぐさめて和らげ、犯してしまった過ちを正すように励ましてくれ。

解任され、以前の資格を失いはしたが、まだ奴裨ぬひや食客を百数十人も抱えており、君は参軍中郎の官にあって、軍府にとどまっているわけだから、同じような運命にあった人たちと比べれば、まだ身分は保たれていると言えよう。

もしも李平が罪を悔い、国のことをひたすらに念じ、君が公琰こうたん蒋琬しょうえん)と協力し、心を尽くして職務に従事するならば、閉ざされた運も再び開き、過ぎ去った時も引き戻されるだろう。

よくこの戒めについて考え、私の注意を察せよ。

こうして手紙を書きながら、長くため息をもらし、涙を流すばかりである」

この手紙から、李平は庶民に落とされたといっても、それなりに身分を保っていたことや、しっかりと反省をするのであれば、諸葛亮は公務に復帰させる意向を持っていたことがわかります。

それだけ李平の能力は評価されていたということであり、それまでの功績もあったことから、身分も公職も剥奪したままであるのは、公正だとは言えないと、諸葛亮は考えていたのかもしれません。

【次のページに続く▼】