李典 一族を率いて曹操に仕えた、文武両道の将軍

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鄴に移住することを申し入れる

やがて曹操が魏公に封じられると、李典はその都となった鄴に、一族三千余家を引きつれ、移住することを願い出ます。

すると曹操は笑いながら言いました。

おんみ耿純こうじゅんを手本とするつもりかな」

耿純は後漢の光武帝に仕えた武将です。

一族郎党を引きつれて従い、光武帝を支援したことで知られていました。

李典は頭を下げ、こう述べました。

「私は鈍重で勇気がなく、功績もわずかですが、爵位や恩寵を過分に受けています。

ですので、一族をあげて力をつくすのが当然です。

それに加え、各地の反乱がまだ治っていませんので、王城周辺の地域を充実させ、それによって四方を制するべきです。

耿純を手本としたわけではありません」

こうして李典は配下の者と、一族の者たちを合わせ、一万三千人を鄴に移住させました。

曹操はこれを喜び、李典を破虜将軍に昇進させています。

合肥を守る

李典はその後、張遼や楽進がくしんとともに合肥に駐屯し、呉への備えを務めました。

すると孫権が十万の大軍を率い、合肥に攻め込んできます。

守備兵は七千ほどで、大きな戦力差がありました。

曹操はこの事態をあらかじめ見通し、「敵が攻めてきたら、張遼と李典は出撃して敵を攻撃し、楽進は城を守るように」という内容の命令書を残していました。

敵との戦力差が大きなことから、諸将は出撃をためらいますが、張遼は命令通りに城を出て戦うことを主張します。

李典と張遼、楽進は普段から仲が悪かったので、張遼は彼らが自分の意見に反発するのではないかと懸念しました。

すると李典は憤然として、こう述べました。

「これは国家の大事であり、重要なのは君の意見が的確かどうかということです。

我々は個人の感情によって大義を忘れたりはしません」

李典のこの発言によって将軍たちの意識が統一され、協力して防衛にあたることができるようになりました。

李典の態度は立派なものだったと言えます。

李典地図2

孫権を撃破する

李典は張遼とともに八百人の精鋭を引き連れて出撃すると、孫権軍に対して果敢に攻撃をしかけます。

この時、張遼は先頭に立って大活躍し、孫権軍の将兵を自ら数十人も斬り捨て、また孫権その人の陣営にまで迫り、彼を大いに恐れさせました。

これによって孫権軍の士気は激しく低下し、十日ほど合肥を包囲した後、むなしく撤退しています。

この戦いの功績によって、李典は百戸を加増され、前の分と合わせて三百戸を領有するようになります。

若くして亡くなる

李典は学問を好み、儒学の教えを尊び、諸将と功績を争うことがありませんでした。

優れた士大夫したいふに敬意をもって接し、態度が謙虚だったので、軍の中ではその長者ぶりが称えられています。

しかし三十六歳で若くして逝去し、子の李ていが後を継ぎました。

びん候と諡されています。

後に曹丕が魏の皇帝に即位すると、合肥における李典と張遼の戦功を称賛し、李禎に百戸を加増しました。

そして別の子に関内かんだい候の爵位と、百戸の領邑を与えています。

その時の詔勅は、以下のようなものでした。

「合肥の戦役において、張遼と李典は八百の兵をもって十万の賊軍を撃破した。

古代からの戦争を振り返っても、かつてなかったことだ。

そして現在にいたるまで賊の戦意を失わせており、国家の爪牙そうがというべき臣下である。

よって張遼と李典の領地から百戸を分割し、一子に関内候の爵位を与える」

また243年には張遼や楽進ら、他の功臣たちと一緒に、曹操の霊廟にまつられました。

李典評

三国志の著者・陳寿は「李典は儒学の教養を尊重し、道義によって個人のいさかいを忘れた。立派なことである」と評しています。

おそらく本人の気質は文官に適していたのでしょうが、戦乱の時代に生まれついたことで、武官としての才能も発揮し、輝かしい戦績を残すことになりました。

文武両道な上に人格もよく練られており、これといった欠点のない、優れた人物だったのだと言えます。