李通は曹操に仕えて活躍した武将です。
もともとは荊州のあたりで独立した勢力を築いていましたが、やがて献帝の身柄を押さえた曹操の傘下に入りました。
そして汝南を任され、賊を討伐して平定します。
袁紹から勧誘された際にこれを断り、曹操への節義を守っています。
侠気の持ち主として知られ、勇敢さは諸将の中で最も優れていた、と評されています。
この文章では、そんな李通について書いています。
江夏に生まれる
李通は字を文達といい、荊州の江夏郡平春県の出身です。
侠気の持ち主として、長江や汝水のあたりでは名を知られた存在でした。
このため、やがて戦乱の時代となり、同じ郡の陳恭とともに朗陵で兵を挙げると、多くの人が集まってきます。
周直を殺害して勢力を吸収する
このころ、李通たちの勢力圏の近くに周直という者がいて、二千余家を従えていました。
彼は表面的には陳恭や李通と友好的にふるまっていましたが、内心は異なっていました。
このため、李通は周直を殺害したいと考えましたが、陳恭はこれに反対します。
李通は陳恭が決断力を欠いていることを知り、一人で策を定めました。
李通は周直と会合を開いて呼び出し、酒宴の最中に殺害します。
これによって大きな騒動が発生しますが、李通は陳恭を率い、周直配下の幹部たちを殺害し、その軍勢を乗っ取ってしまいました。
陳郃と吳霸を討つ
その後、陳恭の妻の弟である陳郃が、陳恭を殺害してその軍勢を奪います。
李通は陳郃を攻撃して打ち破り、その首を斬って陳恭の墓に祭りました。
また、李通は黄巾党の大幹部である吳霸を生け捕りにし、その部下たちを降伏させています。
こうして李通は勢力を拡大していきました。
飢饉をしのぐ
やがて大きな飢饉にみまわれましたが、李通は自分の財産を傾けて対応し、士卒たちと粗末な食事をわけあってしのぎます。
このため、みなは争うようにして李通に従うようになりました。
李通の勢力の結束が固くなったので、周辺の盗賊たちは李通の支配領域を犯すことがなくなります。
これらの様子から、李通には決断力と軍才、そして度量があり、乱世における頭領としての器が備わっていたことがわかります。
曹操の傘下に入り、活躍する
建安の初年(一九六年)、曹操が許都に献帝を迎えて権力を掌握すると、李通は部下たちを率いて曹操の元を訪れます。
すると曹操は李通を振威中郎将に任命し、汝南の西の境界に駐屯させました。
その後、曹操が張繡を討伐しようとすると、劉表は兵を派遣して張繡を支援します。
このため、曹操軍は不利な状況になりましたが、李通は将兵を率いて夜のうちに曹操の元に駆けつけました。
このため、曹操は戦いを再開することができました。
李通は先鋒を務め、張繡をおおいに打ち破ります。
この功績によって裨将軍に任命され、建功侯に封じられました。
また、汝南郡のうちの二県を分割し、新たに陽安郡を設置し、李通がそこの都尉(統治者)に任命されます。
このようにして、李通は曹操から重用されるようになりました。
法を守った趙儼と親交を結ぶ
それからある時、李通の妻の伯父が法を犯し、朗陵の県長である趙儼によって逮捕されます。
そして死刑に処せられました。
このころ、殺生を定める権限は牧や太守(地方長官)が握っていました。
このため、李通の妻子は号泣しながら伯父の命を救うようにと李通に懇願します。
これに対し李通は「いまは曹公(曹操)と力を合わせている。その道義を思えば、私的な事情のために公をないがしろにすることはできない」と答えました。
そして趙儼が法を守って自分におもねらなかったことを高く評価し、彼と親交を結びました。
袁紹や劉表の勧誘を拒む
それから曹操は、官渡で袁紹の攻勢を阻みました。
このころ、袁紹は李通に使者を送り、征南将軍に任命すると告げて寝返りを促してきます。
劉表もまた勧誘をしてきましたが、李通はどちらも拒んでいます。
すると李通の親戚や部下たちは、涙を流して訴えました。
「いま我々は孤立しており、単独で守備についています。そして大きな支援を得られる見込みもありません。
滅亡がすぐそばにある状況です。
速やかに袁紹に従ってください」
当時は袁紹の方が曹操よりも勢力で勝っていましたので、このような意見が出るのは無理からぬところがありました。
これに対し、李通は剣に手をかけつつ叱ります。
「曹公の明哲さによって、天下は必ず平定される。
袁紹は強勢であるとは言っても、人材の任命や起用の方針が乱れている。
ゆえに、最後には捕虜になるだろう。
わしは死んでも裏切らぬ」
それからすぐに袁紹の使者を斬り捨て、袁紹がよこした印綬を曹操のところに送りました。
このころ、汝南のあたりは袁紹に味方する劉備の攻撃を受け、寝返るものが続出しています。
その中で李通が曹操陣営にとどまったのは、奇特な行いだったと言えます。
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