涼茂 節義を備え、公孫度を諭した魏の高官

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涼茂りょうぼうあざな伯方はくほうといい、山陽さんよう昌邑しょうゆう県の出身です。

若いころから学問を好み、議論をする際にはいつも経典を根拠とし、それによって物事の判断をしました。

曹操に招聘されて司空えん(大臣の属官)となり、成績が優秀だったので、侍御史じぎょし(監察官)に任命されます。

泰山郡の統治を改善する

このころ、泰山郡では盗賊があふれかえっていました。

涼茂が泰山太守に任命されると、十ヶ月の間に治安が改善され、幼子を背負って移住してくる者が、千軒以上もあったほどになります。

このように、涼茂は統治者として優れた手腕を持っていたようです。

楽浪太守になるも、公孫度に引き止められる

やがて涼茂は朝鮮半島にある、楽浪らくろう郡の太守に転任となります。

しかしその道中にある遼東りょうとうにおいて、涼茂は領主の公孫度こうそんたくによって、不当に引き止められてしまいました。

このころ、公孫度らの一族は、中央の混乱をよいことに、東方の辺境において自立をはかっており、その勢力圏にある楽浪郡に、涼茂を赴任させたくなかったのでした。

涼茂は屈服しませんでしたが、役目を果たすことができない状態が続きます。

鄴を襲撃する計画に意見を述べる

ある時、公孫度は涼茂と諸将たちに、次のように述べました。

「聞くところによると、曹公(曹操)は遠征に出ており、ぎょう(曹操の本拠)を守る者はいないとか。いまわしは三万の歩兵と一万の騎兵でもって、一挙に鄴に向かいたいと考えている。誰がこれを防げようか」

諸将たちは「その通りです」と言って賛同します。

公孫度は振り返り、涼茂に「君はどう思う」とたずねました。

涼茂は答えます。

「このところ、国内は大乱にみまわれ、社稷しゃしょく(国家の系譜)は傾いています。

将軍(公孫度)は十万の軍勢を擁しながら、座ったままで、情勢を観望しておられます。

人の臣下たるものが、このようなことでよいのでしょうか。

曹公は国家の危機を憂い、民の苦難をあわれみ、義兵を挙げて天下のために、残忍な賊どもを征伐しています。

その功績は高く、徳は広く、無二の方だと言えます。

国内はようやく安定し、民は安心して暮らせるようになったばかりです。

ゆえに、まだ将軍の罪は責められていないだけなのです。

それなのに、将軍は兵を西に差し向けて戦争をしようとしておられます。

であるのなら、存亡の結果は、朝にもならないうちに決するでしょう。

将軍は、よくはげまれるとよろしいでしょう」

諸将は涼茂の言葉を聞き、みな震えおののきました。

公孫度はいい気になって兵を動かす気でいましたが、実際には中央が混乱しているからその罪が見過ごされているだけで、その立場が危ういものであると悟ったからです。

しばらくしてから、公孫度は「涼君の言うことは、もっともだ」と述べ、遠征を行うことはありませんでした。

曹丕から尊重されるも、やがて亡くなる

その後、涼茂は招聘され、魏郡の太守になりました。

そして甘陵かんりょう国のしょうにもなり、いずれも治績をあげています。

曹丕が五官将になると、涼茂は選抜されて長史(副官)になり、左軍師にも任命されました。

魏国が建国されると、尚書僕射ぼくや(政務副長官)となり、中尉や奉常ほうじょう(礼法の司)にもなるなど、中央でも立身します。

曹丕が太子だった時に、涼茂は太子太傅たいふ(太子の師)に任命され、大変に敬意を払われ、礼遇されました。

曹丕から厚遇されていたので、魏が禅譲を受けた後には、その大官にもなれたでしょうが、惜しくもこのころに亡くなっています。

涼茂の名は、曹丕の八人の友を表す「八友」の中に数えられてもいます。

涼茂評

三国志の著者・陳寿は涼茂を次のように評しています。

袁渙えんかん邴原へいげん・張範らは清廉で、進退が道義にかなっていた。涼茂は彼らに次ぐ人物である」

涼茂については記録が乏しかったのか、その人となりについて詳しい話は残っていません。

しかし各地で治績をあげ、公孫度の圧迫にも屈しなかったことから、優れた能力と人格を備えた人物だったのは、確かなようです。