孫権の攻撃を防ぐ
やがて曹操と敵対するようになった孫権は、十万の大軍を率いて合肥に攻め寄せてきました。
そして合肥は百余日にわたって包囲されるのですが、連日降り続いた雨によって、城壁がいまにも崩れそうになります。
すると守備兵たちは、劉馥が用意していた草のむしろで壁をおおって崩れるのを防ぎ、夜になると、魚の油を燃やして城外を明るく照らし出しました。
これによって、孫権軍の様子を監視しながら防衛することができ、ついに守り通すことができたのでした。
こうして孫権は、すでに死去していた劉馥の備えによって、合肥を攻め落とせずに撤退しています。
その後も孫権は、合肥より北に進出することはできませんでした。
死後に高い評価を受ける
この結果、合肥の住人たちは、ますます劉馥を追慕するようになり、新しい太守が赴任していたものの、「彼はとても劉馥ほどにはなれないだろう」と言い合いました。
優れた人の後任を務めるのは、なかなか大変なことだったようです。
劉馥が築いた堤防は、次の晋の時代になっても豊かな実りをもたらし、住民たちに恩恵を与えていた、ということです。
このように、劉馥は数年、数十年先を見越して行動できる、優れた政治家だったのでした。
子孫も優れた手腕を持っていた
後に劉馥の子・劉靖は廬江太守となり、父と同じ地に赴任しました。
その後は河南尹(都知事)を経て鎮北将軍となり、国境の北部を統括し、異民族の動きを抑える、難しい役割をやり遂げています。
また、孫の劉弘は三国時代が終わり、晋も衰退する中で、荊州で独立割拠しました。
そして天下が麻のごとく乱れる中で、荊州に安定と平和をもたらす功績を立てています。
このように、劉馥の一族はいずれも統治に関し、優れた手腕を持っていたのでした。
劉馥評
三国志の著者・陳寿は劉馥を他の地方官たちと一緒に、次のように評しています。
「漢末より以降、刺史が諸郡を統括し、都の外にあって行政を執り行った。
先の時代にはただ監督するだけだったが、それと同じではない。
太祖(曹操)が国家の基礎を作り、魏の帝業が終わるまでの期間において、劉馥らは評判を立てられ、それにふさわしい名実を備えていた。
みな仕事の機微に熟達し、威厳と恩恵がともに示された。
だからよく万里四方の地を引きしめて整えることができ、後世に語られるほどの存在になったのである」
刺史は元々、各地の長官たちが不正を働かないよう、監察をするのがその役目でした。
しかし戦乱の時代になると、小さな行政単位の長たちに任せていても反乱が抑えられず、統治がうまくいかなくなります。
このため、刺史が州全体を統括する役目に変化し、その責務が大きくなったのでした。
劉馥はそういった時代の刺史の一人で、その役目を見事に果たしたことから、称賛を受けることになったのです。