劉邦はどうして項羽を討ち破り、漢の高祖になれたのか?

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人相を賞賛される

呂雉と結婚したものの、劉邦は相変わらず無頼の暮らしを続けていました。

このため、呂雉は劉邦の実家に身を寄せ、農家の仕事を手伝いながら二人の子を育てます。

ある日、呂雉が畑仕事をしていると、通りかかった老人がその人相を見て、貴さを褒め称えました。

喜んだ呂雉が子どもたちも見てもらうと、劉邦の長男と長女もまた貴い人相だったので、老人は驚きます。

やがて劉邦が帰ってくると呂雉から話を聞き、彼もまた老人に人相を見てもらいました。

すると老人は「奥さんや子どもたちの人相が優れているのは、あなたがいるからだとわかった」と劉邦に告げ、「あなたの人相の貴さは、とても言葉にできないほどだ」と絶大な賞賛を送り、劉邦を喜ばせました。

劉邦は鼻が高くて顔が長く、「龍顔」と呼ばれる顔つきをしていたと言われてます。

そういったつくりの顔の持ち主は、この時代の中国ではよほどに出世すると信じられていたようで、それによって作られていった名声は、劉邦の将来に強く影響しました。

なお、劉邦の母は龍との間に子を成した、という伝説があるのですが、劉邦の人相から発祥したものだったのかもしれません。

呂雉と結婚できたのもその人相ゆえですし、この時代の劉邦が持っている唯一の財産が、人に見込まれやすい相貌だったのだと言えます。

亭長となるも、逃亡生活を送る

やがて劉邦は亭長ていちょう(宿場の長)という地位を与えられ、身分は低いながらも公的な役職を得ることができました。

これには呂公の婿になったことが影響したと考えられます。

そしてある日、労役のための人夫を咸陽まで引率する任務を与えられますが、劉邦はこれに失敗してしまいます。

秦の労役は大変に厳しく、規律をわずかでも破ると罰せられるため、生きて帰れるかの保証がない仕事でした。

このために集められた人夫たちは、恐れをなして移動中に逃げ散ってしまいます。

予定の数の人夫を送り届けられないと、引率役は処刑されてしまうため、劉邦はやけになって酒を大量に飲み、人夫たちに「俺も逃げるから、お前たちも逃げていいぞ」と伝えます。

そして劉邦についていきたいと望んだ人夫たちを連れ、一緒に逃亡してしまいました。

陳勝・呉公の乱が発生する

このまま世が平和に過ぎていけば、劉邦は犯罪者として逃亡生活を続けなければならなかったでしょうが、紀元前209年に、陳勝と呉公という男たちが秦への反乱を起こしたことから、情勢は一変します。

陳勝と呉公は劉邦と似たような境遇の男たちで、900名の農民を徴発し、辺境の守備に赴くことになっていました。

しかし、道中で川が増水して渡れなくなってしまい、指定された期日に到着できなくなりました。

この場合、秦の法律では処刑されてしまうことになります。

それならば、いっそのこと反乱を起こしてやろう、と決意した陳勝と呉公が立ち上がると、秦の苛烈な支配に不満を抱いていた者たちが賛同し、たちまち数万の兵が集まり、大勢力へと成長しました。

これは陳勝と呉公が優れていたというよりも、それだけ秦の支配体制が世の実情に合わず、不満が高まっていたことの現れだと言えます。

この前年に始皇帝が死去して秦の統治力が乱れ始めており、反乱を起こしやすい環境になってもいました。

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