劉廙は魏臣で、文章力と知恵に秀でた人物です。
たびたび政治に関する意見を述べ、曹操も感心させたことがありました。
ある時、弟が反乱に加担したのですが、特別に連座の罪を許されており、高く評価されていたことがうかがえます。
この文章では、そんな劉廙について書いています。
南陽に生まれる
劉廙は字を恭嗣といい、荊州の南陽郡安衆県の出身です。
十才の時に講堂で遊んでいると、潁川の司馬徽がその頭をなでながら言いました。
「坊や、坊や、『黄が中央にあって理に通じる』よく知っているかい?」
五行説において、黃は中央に位置する色で、他の赤・青・白・黒と通じ合っているとされていました。
司馬徽はこの言葉によって、万物の道理に通じること目指しなさい、と劉廙に告げたのでした。
兄が劉表に殺害される
劉廙の兄の劉望之は、世に名を知られた存在でした。
このため、荊州牧(長官)の劉表に招かれ、従事(側近)に任命されます。
しかし、兄の二人の友人が、いずれも誹謗中傷され、劉表によって処刑されてしまいました。
劉望之もまた、正論をもって劉表を諌めたので、劉表に気に入られませんでした。
なので劉廙は兄に言います。
「かつて趙は鳴と犢(賢人)を殺害したので、孔子は車を巡らして立ち去りました。
いま兄上は、柳下恵(魯の賢大夫)にならい、周囲に迎合し、知恵の光をちりの中に隠すことができないのであれば、范蠡を模して外に出られるべきです。
座して自ら危機の中に留まるのは、まったくよろしくないことです」
このように、劉廙は故事を例に引いて、兄に劉表の元から離れるように勧めました。
しかし劉望之はこれに従わず、やがて殺害されてしまいます。
劉廙はこのことを恐れ、揚州に逃亡しました。
曹操に仕える
劉廙は曹操に帰属し、丞相掾属(大臣の属官)に任命されます。
そして五官将文学に転任となり、曹丕に仕える立場となりました。
曹丕はその器量を認め、劉廙に草書で手紙を送るように命じます。
劉廙は次のように返書を出しました。
「はじめ、尊卑には区別があるのが礼の変わらない決まりごとだと思っていました。
このため、区々とした礼節にこだわり、あえて草書をおさめることはありませんでした。
かならず、厳しく命じられたとおりにせよとのことで、誠に功労がおありなのに、謙虚なお気持ちで、皇帝からの厚遇を貴しとせず、貧しい家に住む者に好意をお寄せくださるのは、思いもかけないことでした。
郭隗は燕において軽んじられず、九九が斉でおろそかにされなかったことで、楽毅は覇業を興すことができました。
節義に欠ける匹夫であっても、高く美しい偉業を成すことがあります。
愚かで鈍い者であっても、どうして辞退することがありましょう」
草書は漢字を崩して書く字体で、知人への書簡などに用い、公式には使われることはありませんでした。
劉廙は上役の曹丕からその草書で手紙を書くように命じられたので、このように自分の考えを記したのです。
魏が建国されると、黄門侍郎(皇帝の側近)に任命されました。
曹操に意見を述べる
曹操は長安に滞在していた時に、蜀を親征しようかと考えていました。
この時に劉廙は、上奏文を出しています。
「聖人は優れた知恵があっても、俗人を軽んじることはなく、王者は凡人の言葉を廃しませんでした。
千年にも及ぶ成功を遂げる者は、身近なことから遠くで起きていることを察し、知恵をもって行きどといた判断を下す者は、下の者に問うことを恥じないものです。
それはやはり、広く情報を集め、衆議を尽くしたいと望んでいるからです。
なめし革や弓の弦は物を言いませんが、聖賢は自らを匡正するために側に置いています。
臣は才知が乏しい者ですが、願わくば自らをなめし革や弦に比べたいと考えています。
その昔、楽毅は弱小の燕をもって、大国の斉を撃破しましたが、軽兵をもって卽墨を平定することはできませんでした。
自ら計画を立てる者は、弱小であっても必ず堅固であり、自ら潰れようとする者は、強者であっても必ず敗れるからです。
殿下が軍を起こされてから三十余年、打ち破れない敵はなく、服従しない強者はいませんでした。
いま海内の兵を整え、百勝の勢威を備えていますが、孫権は呉において堅固な地勢を守り、劉備は蜀において従おうとしません。
夷狄の臣は我が冀州の兵の敵ではなく、孫権と劉備の実力は袁紹とは比較になりません。
しかし袁紹は滅んだものの、二つの敵にはいまだ勝利できていません。
これは現在こちらが弱体化し、知恵と武力を備えていたのが昔日のことになったからではありません。
自ら計画を立てる者と、自ら潰れようとしている者との勢いが異なっているからです。
それゆえ、文王は崇を討つにあたり、三度遠征しても下すことができなかったので、帰還して徳を治め、その後で服従させました。
秦が諸侯だった時、戦えば必ず相手を服従させましたが、天下を征服した後、東に向かって皇帝を称すると、一人の男が大声で呼ばわっただけで、その社稷は崩れ落ちました。
これは外で力を使い尽くし、内において民をいつくしまなかったからです。
臣が恐れますのは、辺境の敵は戦国時代の六国ほどのものではないのに、土が崩れる勢いが見受けられるからです。
これはよく察しておかなければなりません。
天下には重なる得と、重なる損失があります。
得られる勢いがあり、それに向かって努力する。
これが重なる得です。
得られる勢いがないのに、それに向かって努力する。
これが重なる損失です。
ただ今の計略は、四方の険しい土地を調べ、要害を選んでそこを守り、天下から兵士を選び、一年ごとに交代させて各方面に派遣します。
そうすれば殿下は広い御殿で枕を高くし、国家の統治に深く思いをめぐらしていただくことができます。
広く農業や養蚕を振興し、節約を旨とします。
十年に渡ってこれを実施されれば国が富み、民は安定するでしょう」
すると曹操は進み出て、劉廙に言いました。
「君主が臣下を知るだけでなく、臣下もまた君主を知らなければならぬ。
今わしに西伯の徳を求めているようだが、わしはそのような人間ではない」
西伯は周の文王のことで、国力を充実させ、子の武王が天下を平定するための下地を作った人物です。
劉廙はいまは呉や蜀を討つのは難しいので、次代に託すため、内政の充実を勧めたのですが、曹操は自分はそのような人間ではない、と否定したのでした。
曹操は呉や蜀を攻めたものの、結局は征服することはできず、天下の統一は劉廙が述べたように、子孫に託すことになりました。
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弟が反乱に加担するも、許される
関羽が荊州を攻撃していたころ、魏諷が反乱を起こしましたが、劉廙の弟の劉偉がこれに引き込まれていました。
この場合、劉廙もまた連座して処刑されるのが当然のことでした。
曹操は次のように命令を出します。
「叔向は弟の虎の罪に連座しなかった。
これが古代の制度だ」
こうして劉廙は特別に罪を許されます。
丞相倉曹属に転任となり、その時に劉廙は、上表して感謝の意を表しました。
「臣の罪は家が傾き、一族が滅ぶほどのものに相当します。
神霊のおかげをもち、時の運に恵まれましたところ、湯の沸騰を止め、焼けただれずにすみました。
冷えた灰の上に煙が起こり、枯れ木に花が咲きました。
物質は天地によって施された恩に答えず、子は父母によって与えられた生命に感謝しませんが、死をかけてお仕えします。
筆によって気持ちのすべてを表すことはできません」
劉廙の提言
劉廙はこのころ、政治に対する提言をしています。
それは地方の役人の任免についてのものでした。
劉廙は、地方の役人たちは、任地における評判や噂によって評価を左右されている面が強く、適切に査定されていないことを指摘します。
噂ではなく事実によって判断すべきだと述べ、具体的には人口に対する耕田の数、犯罪の発生件数、逃亡者・反逆者の数を計算し、比較することで、役人が有能か無能かがわかる、と主張しました。
この意見には曹操も感心しました。
この挿話は、統計的なデータに基づいて役人の能力を評価すべきだという、近代的なものの見方を劉廙がしていたことを示しています。
やがて亡くなる
劉廙の著作は数十篇ほどあり、丁儀とともに刑罰や礼について論じたものを合わせ、みな広く世に伝わっていました。
曹丕が魏王に即位すると、侍中になり、関内侯の爵位も与えられます。
そして黄初二年(二二一年)に亡くなりました。
子供がいなかったので、曹丕は弟の子の劉阜に後を継がせています。
劉阜は後に陳留太守となり、その子の劉喬は豫州刺史にまで立身しました。
またこの一族は、晋の時代にも栄えていたと記録されています。
劉廙評
三国志の著者・陳寿は「劉廙は清廉さと見識によって著名だった」と評しています。
いくつか収録されている文章を見るに、筋道を立ててわかりやすく自己の主張をするのが得意で、かつ政治に的確な意見を述べることができたようです。
このために曹操から評価され、弟が反乱に加担したにも関わらず、生き延びることができたのでしょう。