真田幸村(信繁) はどのような人物だったのか?

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紀州九度山への配流

関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わり、昌幸と幸村は敗者になりました。

上田城では戦術的に勝利を収めたものの、肝心の主力決戦の結果を変えるには至らなかったのです。

昌幸と幸村は家康の跡継ぎである秀忠に煮え湯を飲ませたわけで、当然のことながら、勝者である家康の激しい怒りを買っています。

本来であれば処刑されるところでしたが、兄・信之(この時に改名)とその舅である本田忠勝が家康にとりなしてくれたおかげで、命までは取られずにすみました。

結果としてみれば、この時の家康の最終的な判断は間違っていたと言えるのですが、もちろんこの時は誰にもそんなことはわかりません。

昌幸と幸村は、命を助けられたかわりに紀州(和歌山県)の九度山に配流されます。

武将としての地位を失い、幸村たちはそこで寂しく生活を送ることになります。

兄からの仕送りを受けたり、真田紐と呼ばれる商品を販売するなどして生計を立てますが、そうこうしているうちに年齢は40を超えてしまいます。

何ら成すこともなく人生が終わってしまうのかと、その身のうちに大きな才能を宿している幸村は、無念に思っていたことでしょう。

しかし徳川氏と豊臣氏の関係の悪化が風雲を招き、幸村にもとうとう活躍できる舞台が訪れます。

それは1614年、幸村が47才の時のことでした。

大坂城へ

この時の家康は豊臣氏を滅亡させると断固として決意しており、方広寺の鐘銘事件などで難癖をつけ、豊臣氏が挙兵することを促します。

この頃には徳川氏の支配体制は盤石になっており、諸大名が豊臣氏に味方するのは期待できない情勢でした。

そのため大坂方は関ヶ原の戦いで領地を失った、主を持たない浪人たちに誘いをかけます。

使者は九度山の幸村の元も訪れ、幸村は大坂城への入城を決意します。

紀州の山奥で朽ち果てるよりも、不利な勢力の味方をし、戦場に身を置くことを選んだのです。

徳川と戦い続けた父の遺志を継ごうという、そんな意識もあったやもしれません。

支度金を受け取った幸村は九度山を脱出し、父・昌幸の旧臣たちに呼びかけて150人程度の軍を編成します。

昌幸は1611年に死去しており、再びの戦乱を迎えることはできませんでした。

昌幸は生前、いずれ豊臣と徳川の間に戦争が起きることを予測しており、その時には豊臣方について作戦指揮をすることまで考えていました。

幸村は昌幸に請うてその作戦を教えてもらいますが、父からはお前ではダメだ、と忠告されます。

これまでに数多くの戦場で実績を上げ、名声を得ている昌幸が提唱するからこそ、この作戦は受け入れられるのであり、無名の幸村が提案したところで受け入れられないだろう、と言われます。

そしてそれは現実の出来事になってしまいました。

おそらく豊臣氏にしても、誘いたかったのは高名な昌幸であり、無名の幸村の参加となると、そこまで多くの期待はしていなかったことでしょう。

幸村は大坂城に到着した際、盗賊と間違われてしまった、などという話もあります。

髪や歯が抜けた年老いた姿であったため、怪しまれたということです。

家康も真田氏の人間が大坂城に入ったと聞いて焦ったものの、昌幸ではなく幸村だと聞いて安堵したそうです。

それは大きな間違いだったわけですが。

ともあれ、幸村は生涯でただ一度、自らの真の力を示せる舞台に到着しました。

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