譙周は蜀に仕えた学者です。
儒学を深く学び、蜀を代表する優れた学者となりました。
たびたび蜀の政治に意見を述べていましたが、衰退は止められず、魏軍に攻めこまれる事態となります。
その際に、譙周は劉禅を説得して魏に降伏させ、その身の安全と、蜀の民が混乱によって苦しめられるのを防ぎました。
この文章では、そんな譙周について書いています。
西充に生まれる
譙周は字を允南といい、巴西郡、西充国の出身でした。
父は儒学の教典や図緯(予言)などに通じた学者で、州や郡から招聘を受けましたが、出仕することはありませんでした。
このため、州の役人が家に出向き、師友従事という、州長官の側近の地位を与えています。
譙周の父は、よほどに優れた学者だったようです。
家は貧しかったが、学問に励む
譙周はこの父を幼くして亡くし、母や兄と一緒に暮らしました。
成長してからは、古代への関心が強くなり、学問にはげみます。
家の貧しさを一向に気にせず、書物を読み上げてはにこにこと笑って楽しく過ごし、時には寝食を忘れて没頭するほどでした。
譙周は天性の学者だったのだと言えます。
譙周の学問と才能
譙周は特に六経(儒教の教養である詩・書・礼・楽・易・春秋)を熱心に研究し、とりわけ書簡を記すのが巧みでした。
天文を読み取って未来を予測する術も身につけていましたが、それほど強く関心を払いませんでした。
孔子以外の思想家(老子など)にはあまり興味を示さず、全編に目を通すことはありませんでした。
身長は八尺(約184cm)もあり、風貌は素朴で、誠実で飾ることを好まない性格でした。
不意の質問にうまく答えるような弁論は不得意でしたが、見識を身の内に秘めており、頭脳は明敏でした。
劉備の代から蜀に仕え、勤学従事として学識面の補佐役となっています。
そして劉備が蜀の皇帝になる際に、それを勧める上表文に連名をしました。
諸葛亮に用いられる
劉備の没後、諸葛亮が蜀の丞相となります。
そして益州の牧(長官)を兼務すると、譙周を勧学従事に任命し、側近としました。
譙周がはじめて諸葛亮に会ったとき、その様子を見た左右の者たちは、思わず吹き出してしまったという逸話があります。
譙周が退出すると、役人が笑った者たちの処分を諸葛亮に求めました。
すると諸葛亮は「私でさえ我慢できなかったのだ。ましてや左右の者たちは仕方がないだろう」と述べて不問にしました。
この時の譙周は、よほどおかしな格好をしていたようです。
服装や身なりなどに、頓着しない性格だったのかもしれません。
諸葛亮の死を聞いて駆けつけ、昇進する
やがて235年になると、諸葛亮は遠征先の五丈原で死去しました。
譙周はその知らせを家で聞きましたが、ただちに五丈原へと駆けつけます。
その後、蜀軍が撤退することが決まったのと、おおぜいが前線に赴くことが懸念されたのか、五丈原に向かうことを禁止する詔勅が出されました。
しかし譙周だけは迅速に行動をしたので、行き着くことができたのでした。
このように、譙周は誠実かつ、決断の早い人だったことがうかがえます。
この点が評価されたのか、諸葛亮の後を継いだ蒋琬から典学従事に任命され、州の学者を取り仕切る立場につきました。
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