周瑜 赤壁で曹操を破り、呉の隆盛を導いた名将の生涯

スポンサーリンク

孫権の補佐を始める

周瑜は兵を引きつれて葬儀に駆けつけると、そのまま呉にとどまって孫権の側近になります。

そして中護軍(近衛指揮官)に就任し、張昭とともにすべての実務を取り仕切りました。

この時、孫権はまだ19才で、その立場は不安定なものでした。

周瑜はそのような状況下で、率先して孫権へ臣下の礼を尽くしたので、やがて政情が安定に向かっていきます。

周瑜は親友の孫策の弟を、自分がもり立てていかなければならないと、決意していたのでしょう。

曹操に人質を要求される

孫策が死去した年、曹操は官渡かんとで袁紹に勝利し、中原の覇者となりました。

そして202年になると孫権に書簡を送り、息子を人質として差し出すように要求してきます。

孫権は群臣を集めて対応を協議させましたが、張昭らは態度をはっきりとさせませんでした。

孫権は人質を送りたくないと考えていましたので、周瑜ひとりを母親のところに伴い、そこで結論を出すことにします。

周瑜は曹操に従う必要がないと述べる

周瑜はまず、かつて揚州と荊州のあたりを支配していたという国が、わずかな領地から始まり、優れた君主たちに導かれて発展し、九百年にも渡って続いた故事を語りました。

これによって、今は曹操が強大で、孫権の方が劣っていても、ひるむ必要はないのだと伝えます。

そして孫権は父と兄から引き継いだ精鋭部隊を持っており、領地も豊かなのだから、曹操の脅迫に従う必要はないと主張します。

もしも曹操が義に従って、天下をただしていけるような人物だとわかれば、その時に仕えればよく、今はまだ情勢を見きわめるべきだとも述べました。

曹操は後漢の天下を簒奪するつもりではないかという疑いが持たれており、彼に従うべきかどうか、迷う者は多かったのです。

これを聞いた孫権の母は「公瑾どのの申されるのはもっともなことです。

公瑾どのは伯符はくふ(孫策)と同じ年に、一ヶ月だけ遅く生まれられました。

私は我が子同様に考えていますから、おまえも兄上としてお仕えしなさい」と言いました。

周瑜と母の話を受け、孫権は曹操への人質の提出を拒否することにします。

こうして周瑜は、呉が独立へと向かう道を開いたのでした。

呉の軍勢を率いて活躍する

孫策亡き後、周瑜は呉の軍勢を率いて各地で活躍します。

206年に、山越という異民族の討伐を主導すると、敵の首領を捕らえてさらし首にし、一万もの捕虜を得ました。

そして劉表配下の黄祖こうそが、数千の兵を柴桑さいそうに侵入させてくると、これを迎撃します。

そして部将の鄧龍とうりゅうを捕虜にし、劉表軍を壊滅させました。

こうして周瑜は孫権による新しい統治体制を、軍事面から支える働きを見せます。

孫策亡き後も、呉の武威は衰えなかったのでした。

曹操が荊州に攻めこむ

やがて208年になると、孫権が江夏を攻めるために出陣します。

周瑜はこの時、前部ぜんぶ大督だいとくに就任し、先鋒隊長を務めました。

しかしこの年の九月、曹操が荊州に侵攻し、情勢が大きく変化しました。

荊州は劉表から、子の劉そうに代替わりしていましたが、彼はすぐに曹操に降伏したので、荊州は曹操の手に落ちます。

そして荊州に滞在していた劉備は、南に逃れる途中の長坂で曹操の襲撃を受け、敗走しました。

この結果、荊州軍を併せた曹操の軍勢は数十万にも達したと噂され、呉の諸将は大変に
怖れを抱くようになります。

降伏か敵対か

孫権は群臣を招集すると、曹操への対応を協議させました。

張昭をはじめ、多くの臣下は次のように述べました。

「曹操はその本性はけだものですが、丞相じょうしょう(首相)に就任し、漢の権威を背景にしていますので、むげにすることはできません。

それに、長江の守りがあればこそ、曹操に対抗できたのですが、彼が荊州とその水軍を手に入れたことで、我が方の有利は失われました。

劉表が用意した数千の軍艦を曹操が用い、歩兵とともに攻め下って来たならば、数に劣る我々が不利となります。

大局的な見地から考えれば、曹操に従うのがよろしいでしょう」

【次のページに続く▼】