諸葛亮に抜擢される
呉への征討は秦宓が予測した通り、失敗に終わり、やがて劉備は亡くなりました。
その後、224年になると、丞相の諸葛亮が益州の牧を兼任することになります。
その際に、秦宓を選抜して別駕(側近筆頭)とし、さらに左中郎将・長水校尉(上級指揮官)に任命しています。
こうして秦宓は、蜀の顕官と言える地位についたのでした。
呉の使者と対話をする
やがて呉との国交が回復すると、張温が使者として蜀にやってきました。
その際に、百官が集まって張温と交流を持ったのですが、みなが集まる中、秦宓だけがやって来ませんでした。
このため、諸葛亮は何度も使いを出して秦宓を促します。
張温が「どのような人なのですか?」とたずねると、諸葛亮は「益州の学士です」と答えました。
秦宓がやってくると、張温は「あなたは学問をしておられるのですか?」とたずねました。
秦宓は「五尺(小柄)の童子でも、みな学問をやります。私に限った話ではありません」と答えました。
難解な質問に答える
張温は秦宓を試してみようと思ったのか、次々と難解な質問をします。
「天には頭がありますか?」と張温はたずねました。
秦宓は「あります」と答えたので、張温は「どの方角にありますか?」とたずねます。
秦宓は「西方にあります。
『詩経』に『すなわち眷として西に顧みる』とあり、これから推測すれば、頭は西方にあります」と答えました。
張温は次に「天には耳がありますか?」とたずねます。
秦宓は「天は高所にあり、卑いものが出す音を聴き取ります。
『詩経』に『鶴は九皋(沢の奥)で鳴き、声は天に聞こえる』とあります。
もしも耳がなければ、どうして聴くことができましょう」と答えます。
張温は「天には足がありますか?」とたずねます。
秦宓は「あります。
『詩経』に『天の歩みは艱難で、この子はためらう』とあります。
もし足がなければ、どうして歩けましょう」と答えます。
張温は「天には姓がありますか?」とたずねます。
秦宓は「あります」と答えます。
張温が「何という姓ですか?」とたずねると、秦宓は「劉という姓です」と答えます。
張温が「どうしてそうだとわかるのですか?」とたずねると、秦宓は「天子の姓が劉だからです。これによってわかります」と答えます。
張温は「日は東方で生まれるのですか?」とたずねます。
秦宓は「東方で生まれますが、西方で没します」と答えます。
このように、秦宓の回答は、打てば響くようにして、相手の声に応じて出されました。
この結果、張温は秦宓の学識はたいしたものだとして、おおいに敬服しています。
秦宓の書いた文章や弁論は、みなこのような様子でした。
大司農となり、やがて亡くなる
秦宓はやがて大司農(農務大臣)に昇進し、226年に亡くなっています。
その昔、秦宓は皇帝の系譜を書いた文章に、五帝(中国の最初期の帝たち)がみな同族とされているのをみて、反対の説を唱えました。
また、「皇・帝・王・霸」という、時代の変化に応じて支配者の質が低下していくことについて議論をし、「養龍」(古代の官)についての議論も展開しましたが、いずれも筋道が通っていました。
同じく蜀の学者である譙周が、若い頃に秦宓の元をしばしば訪れ、『春秋然否論』という書物に、それらの言論を記録しています。
(この内容は、三国志では省かれています)
秦宓評
三国志の著者・陳寿は「秦宓は当初、世俗から離れることの高貴さを慕っていたが、愚人のふりをして世評を避けることはしなかった。
しかし受け答えには余裕があり、文章が壮麗で美しかった。
一代の才士だったと言える」と評しています。
秦宓は世に出ることを疎んでいたのは事実だったのでしょうけれども、それは徹底しておらず、地位のある人にしばしば書簡を送り、自分の意見を明らかにしています。
そうすればやがて起用したいと思われるのは当然の流れであり、隠れたいという思いとは、矛盾したもの抱えて生きていた人だと言えます。
しかしこれは秦宓が特におかしいわけではなく、誰にでも、目立ちたいという思いと、隠れて静かに生きたいという思いは、半ばして備わっているのではないかと思われます。