二人の孫子 – 孫武と孫臏 兵法書を書いたのは?

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『孫子の兵法書』で知られる孫子は、古代中国の兵法家でした。

「子」とは「先生」を意味する言葉ですので、孫子は孫先生という意味になります。

史上、孫子と呼ばれた人物は二人いましたが、この文章では、彼らの逸話や事跡について書いてみようと思います。

一人目の孫子

最初に孫子と呼ばれたのは、孫武という人物でした。

紀元前545年頃の生まれだったと言われていますが、当時の中国は諸侯が覇を競う戦国時代でした。

そんな中、孫武は南東に位置する呉に仕え、将軍として活躍します。

【孫武の肖像画】

闔閭に面会し、美女を訓練することになる

孫武はせいの出身でしたが、政争から逃れ、南に国境を接する呉に渡りました。

そしてそこで呉王・闔閭こうりょに召かれ、面会をしています。

すでに孫武の名は知れわたっていたようで、闔閭から次のような話を持ちかけられました。

「おぬしの著書13篇をは残らず読んだ。兵士の訓練のやり方を、ためしに見せてはくれぬか?」

すると孫武は「よろしゅうございます」と答えます。

そして闔閭が「予の女たちで試みることができるか?」とたずねたので、孫武はまた「よろしゅうございます」と答えました。

こういったわけで、孫武は宮中の美女たちを兵士に見たて、訓練を施すことになります。

訓練を始めるも、宮女たちは言うことをきかず

美女たちは180人ほどおり、孫武は彼女たちを2つの部隊に分け、王の寵愛を受けていた2人をそれぞれの隊長としました。

そして宮女たちにほこを持たせ、「前と言ったら自分の胸を注目し、左と言ったら左手を、右と言ったら右手を注目し、後ろと言ったら後ろを向くのだ」と命じました。

宮女たちは「わかりました」と答えたものの、いったい何の座興なのかと思い、真面目に受け取ってはいませんでした。

孫武は斧などの刑具を並べ、「軍律を守らないものは厳しく罰せられる」と宮女たちに告げます。

そして孫武は同じ言葉を5度繰り返し、太鼓を鳴らして「右!」と言いました。

しかし宮女たちはどっと笑うばかりで、孫武の命令を聞きません。

王の寵愛を受けている自分たちが、得体の知れないよそ者の命令を聞く必要などないと、たかをくくっていたのでしょう。

孫武は「取り決めが明白でなく、軍律の説明が不十分だったのなら、それは大将である私の落ち度だ」と述べ、再び軍律を5度言い渡し、それから太鼓を打って「左!」と言いました。

しかし宮女たちはもう一度大きく笑うばかりで、孫武の命令を聞くことはありませんでした。

隊長に見立てた美女を処刑する

これを受けて孫武は「取り決めが明白になったのに法に従わないのは、隊長の罪である」と述べ、隊長役の2人の美女の首をはねるようにと命じます。

闔閭は台の上から様子を見物していましたが、お気に入りの美女たちが処刑されそうになっているのを見て、あわてて使いを孫武の元に送りました。

「将軍の訓練の方法はよくわかった。予はこの二人がいないと、食事をうまく味うこともできないのだ。どうか殺さないでくれ」と使者は闔閭の意向を伝えます。

孫武は「命を受けて大将となりましたが、『将たる者が軍にあれば、君命ですらも受けないことがある』と申します」と答え、闔閭の要請を拒みました。

そして美女2人の首を切らせ、それを他の宮女たちに見せてまわりました。

そして次に立場の強い宮女2人を隊長役にわりあてます。

すると今度は、宮女たちは孫武の命令通りに左右前後を向き、すべて法にかない、声を立てる者もありませんでした。

孫武は「兵士の訓練は完了しました。どうぞ台より降りてご覧くださいませ。この者たちは王のみ心のままに、水や火の中にも飛び込むでしょう」と闔閭に告げます。

闔閭は「いや将軍、宿に下がって休息を取ってもらおう。予は見たいとは思わぬ」と気落ちした様子で返事をしました。

すると孫武は「陛下は言葉を好まれるばかりで、実行なさることができないのです」と告げ、引き下がったということです。

孫武は闔閭に仕える

以上の逸話は、史記の『孫子列伝』に記されています。

『孫子の兵法書』には、『士卒たちに規則を教え、刑罰を用いて執行せよ。これが統率を徹底させる方法である』と記されていますが、孫武はまさにそれを実践して見せたのでした。

しかし一方で、同じ文章の中に『士卒たちと親密な関係を築いていないのに処罰を加えると、反発を受けて士卒たちは服従しなくなる』とも書かれています。

この場合、孫武は宮女たちと会ったばかりで、まだ親密な関係は築けていません。

にも関わらず厳罰に処したのであれば、実際には宮女たちは、孫武の命令に服従するようにはならなかったでしょう。

このことから、この逸話は事実ではなかったのだろう、とも言われています。

類似した逸話が史記の『司馬穣菹じょうしょ列伝』にありますが、それが変形して孫子にもあてはめられたのかもしれません。

孫武はこの後、闔閭から重く用いられたことから、お気に入りの美女2人を処刑してしまった可能性は低いと思われます。

【次のページに続く▼】

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中国史 史記列伝
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