曹植は曹操の子で、後継者候補になったことのある人物です。
天賦の才能を持ち、詩や文章を作るのが巧みで、頭脳の働きが優れていました。
このため、曹操は兄の曹丕をさしおいて、曹植を後継者にしようかと悩みます。
しかし曹植の素行がよくなかったこともあって、曹丕を後継者に定めました。
曹丕はこの件で曹植を憎むようになり、皇帝となったあとで曹植を冷遇するようになります。
このため、曹植は才能をいかしきることができず、詩文だけを後世に残し、世を去ることになりました。
この文章では、そんな曹植について書いています。
幼くして才能を示す
曹植は字を子建といい、曹操の五男です。
十才あまりのころから『詩経』や『論語』『楚辞』などを読み、数十万語をそらんじることができました。
また、文章を作るのがとても巧みでした。
曹操はその文章を目にすると、曹植に「誰かに書いてもらったのか?」とたずねます。
曹植はひざまずいて言いました。
「言葉が出れば論をなし、筆を下ろせば文章となります。
願わくば、目の前で試してみてください。
どうして人に代わってもらうことなどありましょうか」
このころ、曹操は鄴において銅雀台を建造しましたが、子どもたちをつれてそこに登り、それぞれに賦(韻文)を作らせました。
そして曹植が筆を取って作り上げると、とてもよくできていたので、曹操はその才能に感心します。
曹操の寵愛を受ける
曹植は大雑把な性格で、威儀を整えず、輿や馬を華麗に飾り立てることを好みませんでした。
進み出て曹操に会った際には、いつも難しい質問をされましたが、当意即妙な答えを返したので、特に寵愛を受けるようになります。
建安十六年(二一一)に平原侯に封じられ、十九年(二一四)には臨菑侯となり、領地を変えられました。
曹操が孫権を征伐した際には、曹植に鄴の留守を守るように命じ、次のように言って戒めます。
「わしはその昔、頓邱の県令になったのが二十三才の時だった。
この時の所行を思い返しても、今になって後悔することはない。
いま、お前もまた二十三才だ。
励まずにはいられまいぞ」
後継者になりそこねる
このようにして、曹植は優れた才能の持ち主だったことに加え、丁儀、丁廙、楊脩ら、優れた者たちの補佐を受けていました。
そして彼らは曹操の前で曹植の才能を褒めそやし、後継ぎにふさわしいことを示唆します。
このため、曹操は何度か曹植を太子にしようかと考え、迷ったことがあります。
しかし曹植は生来の性分のままにふるまい、自分をよく見せようとしたり、励むことがなく、飲酒を節制することができませんでした。
これに対し、兄の曹丕は心配りをして自制し、自らを飾ってよく見せようと計らいます。
曹丕は曹植に後継者の地位を取られないようにするために、意図的に曹植と反対の行動を取ったようです。
すると宮廷の人々は、曹丕を後押しするようになったので、やがて曹丕が後継者になると定められました。
その過程では、次のような事件もありました。
曹操を激怒させる
建安二十二年(二一七)に五千戸を加増され、曹植の領地は合わせて一万戸にもなりました。
このことから、曹操から特に厚遇を受けていたことがうかがえます。
というのも、兄の曹彰(曹操の四男)ですらも、この時期は領地が五千戸程度だったからです。
しかしこのころ、曹植は車に乗って皇帝だけが通れる道を通り、司馬門を開けさせて外に出る、という事件を起こします。
もちろんこれは、臣下が決してやってはいけない行いでした。
これを知った曹操は大いに怒り、公車令を死刑にしました。
この事件以来、諸侯(曹操の子で爵位を与えられていた者たち)に対する禁令が重くなり、曹植への寵愛が日毎に衰えていきます。
このころに出された布令に「初めは、子供たちの中で大事を定めることができる者は、子建(曹植)だと思っていた」というものがあります。
また「臨菑侯の曹植は自分勝手に外に出て、司馬門を開かせて金門に至った。わしはこれ以来、この子を違った目で見るようになった」とも布令を出し、曹植に失望したことを強く表明しています。
また「諸侯の長史(副官)や側近は、わしが外出する際に、いつも諸侯たちを連れて行く意味を理解しているのだろうか。
子建が司馬門を開いて以来、わしは諸侯たちを信じることは、とてもできなくなった。
わしが外出したならば、おそらくはまた勝手に門から出ていくのだろう。
ゆえにわしは諸侯たちを連れて行き、側に置いているのだ。
わしはもはや誰を腹心として頼んでよいのかもわからぬ」とも布令を出しています。
これらの曹操の言葉によって、曹植が皇帝専用の道を勝手に使ったことに、大変に憤っていたことがうかがえます。
このころ、すでに後漢は滅亡が間近となっており、皇帝の権威は大きく低下し、曹氏の力が強まっていました。
このために曹植は思い上がり、皇帝の道や門を勝手に使ったのだと思われます。
しかしまだ、形式的には曹氏は後漢の臣下ですので、このような増長したふるまいは世間からの反発を招くことになります。
ですので、曹操は失望や怒りを表明し、自分が曹植のふるまいを承認していないことを世に示したのでしょう。
そして同時に、曹植がこうしたことへの配慮ができない人間なのだと知り、政治的な意識の欠如を感じ取り、とても自分の後継者にはできないと、考えを改めたようです。
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