戦国時代北条氏政と氏直が、小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされたワケ 北条氏は戦国時代に5代、90年を費やして関東地方の大半を制し、覇者たる地位を手に入れました。 しかし制覇が完了間近になったところで、豊臣秀吉の討伐を受け、4ヶ月の戦いの後、あえなく滅亡しています。 秀吉と北条氏政《うじまさ》・氏直《うじ...2018.01.152021.05.19戦国時代豊臣徳川真田北条
戦国時代北条氏規 軍事や外交に秀で、徳川家康と親しかった勇将の生涯 北条氏規うじのりは戦国時代の末期において、外交や軍事に活躍した武将です。 天下の過半を制した豊臣秀吉との外交を担当し、北条氏の存続のために臣従するべきだと主張しましたが、兄の氏政らが承服しなかったため、秀吉の討伐を招くことになりました。 ...2018.01.102018.04.18戦国時代北条
戦国時代前田利常 あえて鼻毛を伸ばし、加賀百万石を保たんとす 前田利常としつねは、加賀百万石を築いた前田利家の四男として誕生した人物です。 前田家は兄の利長《としなが》が継いでいたのですが、利長は正室とも側室との間にも、男子を得ることができませんでした。 このために利常が年の離れた兄の養子となり、...2017.12.102018.04.18戦国時代前田徳川
戦国時代北条氏との外交に見られる、徳川家康の忍耐強さについて 徳川家康は、強大な武田信玄に立ち向かえるほどの勇気を備えた武将でした。 このために「三方ヶ原(みかたがはら)」で信玄に挑戦して大敗し、あやうく戦死しかけたこともあるほどです。 しかし一方では、家康は非常に忍耐強い性格も備えており、なかな...2017.11.302018.04.18戦国時代徳川北条
織田徳川家康はいかにして井伊直政を育成したか 優れた戦国大名の元には優れた人材が集うものですが、最終的に覇者となった徳川家康にも、優れた家臣たちが仕えていました。 その中でも本多忠勝・榊原《さかきばら》康政・酒井忠次・井伊直政は「四天王」と呼ばれ、特に秀でた能力を持っていたことで知ら...2017.11.112018.04.18織田戦国時代豊臣徳川井伊
織田徳川家康はどうして小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と互角に渡り合えたのか? 徳川家康は1584年、織田信雄とともに羽柴秀吉に戦いを挑みました。 この時の戦力は、徳川・織田連合軍が3万、羽柴軍が10万で、大きな差が開いていました。 にも関わらず、家康は小牧・長久手の戦いで勝利し、秀吉と正面から戦いながらも、敗退し...2017.09.212018.04.18織田戦国時代豊臣徳川
戦国時代直江兼続は奸臣か、それとも名宰相か? 直江兼続は上杉景勝に仕え、家老として上杉氏の活動を取り仕切った人物です。 領内の反乱を鎮圧し、開墾や特産品の交易によって領地を発展させるなど、多方面に渡って活躍しました。 また、徳川家康に「直江状」と呼ばれる挑戦状を送り、関ヶ原の戦いが...2017.07.202018.04.18戦国時代上杉
戦国時代本多忠勝 「天下無双」と呼ばれた戦国最強の武将の生涯 本多忠勝は幼いころから家康に仕え、生涯を通じて忠義を尽くし、数多くの戦場で活躍した武将です。 家康の家臣の中でも特に優れた者を指す「徳川四天王」のひとりに数えられ、天下統一の達成に大いに貢献しています。 また、織田信長や豊臣秀吉といった...2017.06.162018.04.18戦国時代徳川
戦国時代島津義弘と豊久の、関ヶ原からの撤退戦(島津の退き口)について 島津義弘と豊久は、天下分け目の決戦となった「関ヶ原の戦い」に、1500の兵を率いて参戦しました。 そして西軍に属するものの、石田三成との確執から戦場ではほとんど戦っていません。 西軍が大敗する形で決着がついてからようやく動き出し、数万の...2017.04.272018.11.09戦国時代島津
戦国時代武田信玄はどうして三方ヶ原の戦いで徳川家康に圧勝できたのか? 1572年、京への上洛を目指す武田信玄は、遠江(静岡県西部)の三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康と織田信長の連合軍と戦い、これに圧勝しました。 これによって信玄は東海方面での優位を確定させ、家康と信長を強く圧迫し、窮地に陥れています。 ...2017.04.142018.04.18戦国時代徳川武田