徳川家康

戦国時代

北条氏政と氏直が、小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされたワケ

北条氏は戦国時代に5代、90年を費やして関東地方の大半を制し、覇者たる地位を手に入れました。 しかし制覇が完了間近になったところで、豊臣秀吉の討伐を受け、4ヶ月の戦いの後、あえなく滅亡しています。 秀吉と北条氏政《うじまさ》・氏直《うじ...
戦国時代

北条氏規 軍事や外交に秀で、徳川家康と親しかった勇将の生涯

北条氏規うじのりは戦国時代の末期において、外交や軍事に活躍した武将です。 天下の過半を制した豊臣秀吉との外交を担当し、北条氏の存続のために臣従するべきだと主張しましたが、兄の氏政らが承服しなかったため、秀吉の討伐を招くことになりました。 ...
戦国時代

前田利常 あえて鼻毛を伸ばし、加賀百万石を保たんとす

前田利常としつねは、加賀百万石を築いた前田利家の四男として誕生した人物です。 前田家は兄の利長《としなが》が継いでいたのですが、利長は正室とも側室との間にも、男子を得ることができませんでした。 このために利常が年の離れた兄の養子となり、...
戦国時代

北条氏との外交に見られる、徳川家康の忍耐強さについて

徳川家康は、強大な武田信玄に立ち向かえるほどの勇気を備えた武将でした。 このために「三方ヶ原(みかたがはら)」で信玄に挑戦して大敗し、あやうく戦死しかけたこともあるほどです。 しかし一方では、家康は非常に忍耐強い性格も備えており、なかな...
織田

徳川家康はいかにして井伊直政を育成したか

優れた戦国大名の元には優れた人材が集うものですが、最終的に覇者となった徳川家康にも、優れた家臣たちが仕えていました。 その中でも本多忠勝・榊原《さかきばら》康政・酒井忠次・井伊直政は「四天王」と呼ばれ、特に秀でた能力を持っていたことで知ら...
織田

徳川家康はどうして小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と互角に渡り合えたのか?

徳川家康は1584年、織田信雄とともに羽柴秀吉に戦いを挑みました。 この時の戦力は、徳川・織田連合軍が3万、羽柴軍が10万で、大きな差が開いていました。 にも関わらず、家康は小牧・長久手の戦いで勝利し、秀吉と正面から戦いながらも、敗退し...
戦国時代

直江兼続は奸臣か、それとも名宰相か?

直江兼続は上杉景勝に仕え、家老として上杉氏の活動を取り仕切った人物です。 領内の反乱を鎮圧し、開墾や特産品の交易によって領地を発展させるなど、多方面に渡って活躍しました。 また、徳川家康に「直江状」と呼ばれる挑戦状を送り、関ヶ原の戦いが...
戦国時代

本多忠勝 「天下無双」と呼ばれた戦国最強の武将の生涯

本多忠勝は幼いころから家康に仕え、生涯を通じて忠義を尽くし、数多くの戦場で活躍した武将です。 家康の家臣の中でも特に優れた者を指す「徳川四天王」のひとりに数えられ、天下統一の達成に大いに貢献しています。 また、織田信長や豊臣秀吉といった...
戦国時代

島津義弘と豊久の、関ヶ原からの撤退戦(島津の退き口)について

島津義弘と豊久は、天下分け目の決戦となった「関ヶ原の戦い」に、1500の兵を率いて参戦しました。 そして西軍に属するものの、石田三成との確執から戦場ではほとんど戦っていません。 西軍が大敗する形で決着がついてからようやく動き出し、数万の...
戦国時代

武田信玄はどうして三方ヶ原の戦いで徳川家康に圧勝できたのか?

1572年、京への上洛を目指す武田信玄は、遠江(静岡県西部)の三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康と織田信長の連合軍と戦い、これに圧勝しました。 これによって信玄は東海方面での優位を確定させ、家康と信長を強く圧迫し、窮地に陥れています。 ...